ツイッター(トランプ5)

最近はツイッターなる投稿が盛んである。これについてはかねてから疑問を感じていた。これは、「言語(音声)空間」なのか「文章空間」なのか。ツイッターは極短文であり、日本語では、「つぶやき」と訳されているらしい。140語以内という制限があるようだが、これで本当に意見が言えるのか。この様な超短文で意見を言うことはまず不可能と思っていたが、最近では、安倍総理も使っているようだし、かつていろいろ世を騒がせ、要するに政治的な話題の多かった鳩山総理も使っていたという記憶がある。この程度の短文で一体何が言えるのか、まあ、学生の飲み会の後のちょっとしたコメントか、朝のあいさつ程度の話だろうと思っていたが、先般のトランプ大統領の当選で俄然このツイッターに対する関心が高まった。

様々な報道によると、今回のアメリカ大統領選において、トランプはこのツイッターを多用ーそして有効に利用したらしい。むしろ、このツイッターを有効に活用し、これを多用した方式こそ、今回のアメリカ大統領選でトランプを大方の予想を翻す形で当選に導いた原動力となったようだ。つまり、つまりツイッター恐るべしというか、ツイッターこそ今回のアメリカ大統領選挙の形を変えたのであり、アメリカの選挙戦あるいはもう少し広く見れば報道合戦も、この新しい手法の導入により歴史的というかこれまでと違う新しい姿を見出したのだ、と理解すべきである。当選後もこのツイッターーを利用しているようで、なにか、重要な政治的な動きについて、新聞等一般メデイアが、あれこれ様々な議論を提供していることに対しトランプは、ツイッターで応じているらしい。つまり、見ていると、今度はメヂア或はその読者の方で、大統領としてどのように考えているのかというような関心事項については、トランプのツイッターを注目すると言う事になっている。

このような変化は、歴史的に見れば、ラジオが普及し始めていたころ、第二次世界戦争におけるアメリカのルーズベルト大統領の炉端談義シリーズ、あるいはかつてのケネデイ・ニクソン戦におけるテレビ画像の果たした役割にも比較することも出来る。ツイッターは、そのような対比の中で理解すべきものだったのだ(と今になって思い知る)。

さて、上にふれた、「言語(音声)空間」と「文章空間」とは本来大きく違うものである。この点は、かつてと言ってもごく最近までつまりは戦後あたりまでは、はっきりと違っていた。文語体と口語体の違いである。古い手紙などを見ても、ーごく最近までー文章は文語体で書かれた。明治以降口語体の文章が当たり前になったが、やはり、文語体もかなりつかわれてきた。この歴史が示す通り、長い歴史の中で見ても文章空間と言葉・音声で伝える空間とは明らかに違うものとして培われてきたのだ。筆者は、「新約聖書」の日本語訳をいくつか持っているが、時に、これら読み比べてみると、明らかに文語体訳の与えるインパクトは格段に違う(筆者が持っているのは初版明治43年のエ・ラゲ訳。日本では、文語体訳はこのラゲ訳しかないらしい)。なにか、文語体は多少韻律のようなものを含んでおり、そのつくりだすイメージが鮮やかである。それだけ、記憶にもとどまりやすい。このように、かつては文章空間と通常の言語(音声)空間とは区別されていたわけであるが、現在ではこのような文章体の区別はなくなっている。しかし、それでも(つまり、現在普通に見られる完全口語体の場合でも)、やはり、「文章空間」と「言語・音声空間」とは明らかに違う。これは、例えば、自分が日常話している会話等を録音して、さて、これを記録として文章におきなおそうとするようなときによく経験することである。つまり、どうしてもしゃべっているままでは文章にならないのである。このようなときは、あわてて、こちらを消して見たり、いくつかの言葉をまとめてみたりして要するに文章の形に書き直す。似たような経験は、例えば、雑誌などで、対談や鼎談記録などを読むときにも経験する。雑誌に載るくらいだから、既に文章の全体としての構成は十分に点検・構成されているはずであるが、それでもこのような本来は言語・音声空間であった対談の記録は、なにか論点のかみ合わない感じ、前後のつながりが不明確なところがあるように感じる。これは、本来は言語・音声空間として作り出されたものを、適宜、文章空間へと焼き直している以上どうしても避けられない、ある種の誤差を示している。

翻って、文章空間として初めから作り出されたものは(俳句等の詩歌は別にして)、言語・音声空間とはなにか異なる原理が働き、あるいは適用される。これは一体どのような原理なのか。考えられることはいくつかある。少なくとも文章である以上、全体としてある種の構成が必要である。つまり、出だしがあり、この後に続く論点についてのおよそのポイントが示され、つづいて論理展開があり、なにか結語がある。これは最低限必要であろう。勿論、文章にする以上すくなくともその文章内のそれぞれの言葉の意味は同一であるはずだし、主語が何か、そして述語が何かは明確にしなければならない。この論理性と明瞭性は、単にその文章だけに適用されるものではなく、実は同じ筆者である限り、以前に発表した文章との論理整合性も求められる。仮に、以前とは意見を変えたとするならば、少なくとも以前の文章を前提にして、その文章とのつながり、あるいは、つながらない理由はきちんと説明しておかなければならない。これらの特性は明らかに言語・音声空間とは異なる。簡単に言えば、言語だけならば、そんなことを言ったっけとか、あるいはその意味はじつはこういう意味なのだとかいう類の言い訳も可能になるが、文章となるとそうはいかない。

今回のアメリカ大統領選挙におけるトランプの言動とその分析については、最近の「文芸春秋(㋃号)」で渡辺恒雄氏が興味ある論評を寄せている。そのなかで、渡辺氏はトランプ陣営が、言葉としていわゆる呼びかけ的な言葉、標語的な言葉を多用し、折に触れそれを繰り返すという戦略を取ったことを指摘し、これを、かつてアメリカのニュース番組のアンカーとして長年第一線で活躍したウオルター・クロンカイトの言葉を引用して分析している。クロンカイトは、このように標語的な言葉やほぼ単語でしかないような言葉を相手に繰り返し、投げつけるような当時の報道の在り方を、サンウンド・バイト・ジャーナリズムと呼んで厳しく批判したそうである(なるほど、このバイトと言う英語は、ちょっとした強い響きの言葉で相手にかみつくと同時に議論をそれだけで済ませてしまうと言うような感じがよくわかる)。そして、渡辺氏は、結局、今回のトランプの作戦はまさにこのサウンド・バイトの類と見るべきと指摘している。このように説明されると、今回のトランプの選挙戦術は、アメリカにおける長いメデイア論争の中で、これまでも繰り返し使われてきたサウンド・バイト作戦の流れに沿うものだったのかと、とりあえずは納得する。なお、余談であるが、筆者が最近読んだダーウィンの進化論ー「21世紀に読む『種の起源』D.N.レズニック」--のなかで、このサウンド・バイトと言う言葉が出てきて驚いたことがある。知られているようにダーウインの進化論(1859年)は、イギリスの学会と言うかもっと広く言論界で大変な論争を呼ぶことになったが、そのような論争の中では、論理的な反論と言うよりも言わば揚げ足取りの「啖呵」を切るような論者もあったようで、この本の訳者はこの「啖呵」の横にサウンド・バイトと注を入れている。この訳者は、原文のサウンド・バイトという英文をどう訳すか多少迷いがあり、わざわざ横書きをつけたらしい。こうしてみると、要するに、サウンド・バイトとは英語としては一種の捨て台詞のようなものと言えよう。そして、トランプはこのような捨て台詞を多用したのだ。

ここで、重要なポイントになるわけだが、このような啖呵あるいは捨て台詞のようなものが言語(音声)空間で使われているならば、それはそれであるべきところにある(つまり、誰でも捨て台詞でも言いたくなるような場面は経験しているはずだし、それはそれで悪いわけでもなくまた異常でもない)と言える。しかし、ツイッターは正にこの「捨て台詞」を文章空間に持ちこんだのである。ここが重要なところであり、かつ、翻って言えばツイッターというシステムの革新性がある(これは誰が開発したのか忘れてしまったが)。ツイッターは、まさに文章である。しかし、同時にあまりに短すぎて文章の作法にははまらず、しかも、同時に文章空間としての作用・力を発揮する。つまり、先ずは、これが文章である以上人々の記憶にとどまり、かつ一つの論理的な文章体系として作用もし、かつ、人々の論理的な分析と検討の対象にもなりうる。しかし、これは、実は「啖呵」に過ぎず、書いている人(文章である以上書いている人と言う事になる)は、言い散らかし、論理的な整合性もものかは、次々と言いたいことに移っていける。このように、ツイッターは今まで考えることのできなかったような文章空間を作り出したという革新性を持っている。

一時、ツイッターの不振が伝えられ、その対策として制限字数を1000字位に広げる案が検討されているというような報道があったが、筆者はこれに疑問を感じた。仮に、ツイッターが1000字レベルに広がることになれば、これは立派な文章空間を形成し、もはや「啖呵」では済まされなくなるだろう。そし、そうなればおそらく書く方もまた、読むほうも文章空間にあるものとして、その論理一貫性や序論ー結語などの基本作法に悩まされることになり、ツイッターとは全く違う世界になるだろう。

前記渡辺恒雄氏は、その論文の表題を「ツイッターで政治は劣化する」としている。この論旨は以上の論旨と同一のものであるが、筆者は論点をもう少し広げツイッターという言語表現形式の特性の問題としてとらえたい。ツイッターと言う世界はこれまでにない型破りの、新しいものだ。しかし、これを逆に言えば、この世界にいる限り文章空間が要求するような論理性も、一貫性も、また、少なくと結果として筆者が何らかの熟慮を働かすという事も要求されない。それでいて文章としての力を発揮する。この点を十分認識すべきだ。どんな議論にも賛成があり反対がある。そしてそれらの議論は少なくとも理性で分かるような論理性が必要だ。ツィッターはこれとは全く異なるものである。とすれば、ツィッターがいくら飛び交っても結局はなんら議論は深まらない。要するに一歩も前進しない。とすれば、トランプ大統領がツイッターを使っている限り、また、メヂイアが(そしてこれを読む人も)トランプのツイッターを追い回している限り、議論は全く進まない。

ツイッター世に送り出した、その革新性に敬意を払うが、同時にツイッターを蔑視することも必要だ。その意味で、本来議論を展開すべき政治家がツイッターを多用し、これで何かを言ったような気分に浸ることは、危険と言うか不毛である。この新しい表現方式をきちんと理解し、これに対応することが必要だ。

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交通事故の報道

先日、京都で軽トラックが、前の車に追突した反動で登校中の児童につ突っ込むと言う大きな事故があった。集団で登校中の児童が、まさに集団で登校していたが故に、一挙に事故にあったという悲惨な結果となった。軽トラックを運転していたという人は80代の老人で、自分がどこを運転していたかも記憶にないという。多分、運転の老人は痴呆状態だったのではないかと考えられるし、これでは責任を問う事もむつかしいだろう。事故の悲惨さから見て、今更、老人の運転は気をつけようなどというようなキャンペーンをしてもむなしく聞こえるばかりだ。

しかし、このような事故は防げるのだ。報道の写真などによると、この京都の道路は通学路に指定され、定期バスも通っていたようであるが、見たところそれほど大きな道路ではない。むしろ、街中のいかにも京都らしい「通り」らしい。であるならば、すぐ思いつくのが、バンパー・ロードである。バンパー・ロードとは、道路に固いゴムなどで極小さな山を作る帯のようなものを敷いた道路である。実は、これは筆者が経験したアメリカの住宅地域で、しばし見る簡単な装置である。これを道路に敷いておくと、車がこの小さい山のところを通過するときひどくバンプする。この衝撃は意外に相当なもので、シートベルトをしていても運転手の頭が車の天井にぶつかりそうな勢いとなり、勿論ハット目が覚めるばかりでなく、車はどうしても減速せざるを得ない。比較的細い道路ではきわめて有効である。上に述べたようにアメリカなどの住宅街では、その一画に入るに入る狭い道路でしばしば見かける。これは人通りの比較的多い住宅地区に入る車のスピードを減速させるばかりでなく、運転者には強烈な注意の信号になる。また、夜などは車が住宅地を通過するときの音を少なくすることにも役立っているようだ。このようにアメリカなどの車社会ではこのようなバンパーはごくありふれた装置である。

写真で見たところ、この京都の通学路などにはまさにこれが有効だ。このバンパー(軽い山のようになるのでハンプとも言う)を2つほどならべて置けば有効に車の速度を規制できる。この固いゴムのようなものを縦に切って細く軽く扱いやすくしておいて、必要に応じで山形を合わせるように二つを並べればよい。つまり、たいして大きく重いものではないので、時間により設置したり、外したりすることも簡単だ。この通学路には毎朝見守り員もいたようであるから、朝7時ごろから設置し9時前には撤去することにすればよい。費用もそれほど掛かるとは思えない。是非この バンパー(ハンプ)の利用を呼びかけたい。

亡くなった児童についての近所の人の言葉や思いについて、情緒的に報道したり、老人の免許返還運動を呼びかけたり、要するに人の情緒や心がけに呼びかけても限界がある。上に述べたようなちょっとした工夫は、おそらく海外経験のある人はだれでも知っているだろうし、この方面の専門家ならば当然知っているはずだ。この様な知識や知見についてもぜひ広く報道すべきである。今回のような比較的狭い道で車の往来が多いような通学路は全国に多数あるはずだ。報道が、このパンパー(ハンプ)ロードのような仕掛けについて紹介し、少しでも情報を提供しておれば、今後このような悲惨な事故を防ぐ有効な手段となるはずである。

日本ではなぜかこのようなハンプ・ロードの設置を見かけないが、先日、靖国神社へ寄った時、「就游館」の隣にある通用門の道路にこれが敷いてあるのを見た。比較的人通りが多い中で、車を強制的に減速させるため有効だ。「就游館」のそばを通る車を静かにさせると言う効果もあるようだ。つまり、この様な製品は日本でも既に作られているようであり、設置例や経験もあるのだ。

交通事故について、なにかかわいそうだったというような観点からの報道だけではなく、上のようなその予防に関する知見や実例なども報道されれば、実際に事故防止の効果が上がるに違いない。報道がこのような観点にまで一歩進むことを期待する。

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旅の人

最近、友人が亡くなった。後で送られてきた葉書によると、友人は自分のメールに最後のメッセージを残していたようで、そこには、「私は(○○日 当日の日付)長い旅に出ました。」と書いてあったそうである。なるほどと思いながらが読んだが、その後、折に触れこの言葉を思い出す。旅に出たのだ。今も旅しているに違いない。長い旅だ。旅と言う事になると、どんな服を着ているのだろうか。イメージとしてはなにか白っぽい感じがするが。荷物は何も持っていないのだろうと思うが、手には杖みたいなものを持っているようにも思えるーーというようなことで、なにか特別な意味を持っていると言うわけではないが、時々、このような思いを感じる。

時に、カソリックの神父の方(イエズス会)と食事をする機会がある、先日、そのような折に、ふとこの葉書の話をした。その時、神父の方は、ーー人間は死んでから、あるいは、死んでしまえばすべてがなくなる、つまり、死ねば全く無になる、と考える人は非常に少ないですね。ーーと言われた。ーーもし、死んですべてが全く無になるということなら、人生、どんなことをしても、どんな生き方をしてもよいことになり、生きると言う事の意味が分からなくなるでしょう。--とも言われた。

というような、事を考えていると、昔見た、ある映画の一場面を思い出す。この映画には、田舎の家庭から独り立ちしていった娘が、折に触れ自分の母親に電話してくる場面がある。娘の方は、生活上のいろいろの問題や悩みをあれこれと電話してくるわけであるが、この中にはいわゆる信仰上の悩みもある。母親は、勿論、これらの悩み事についていつも耳を傾け優しく聞いてあげるわけだがーー
 ある日、突然、その電話の中で、驚愕したような声を上げる。
       ーーエッ、何、そうするとあなたは、無神論者なの!

ここには、信仰上の悩みを聞いてあげているという感じからの飛躍がある。つまり、信仰上の悩みを持つことと、無神論者となることとの間には大きな飛躍があり、これは実に衝撃的な事なのだ。

その後、今度は、この神父の方の言葉が気になる。友人は、長い旅に出たわけだから全く無になったわけではないのではないか。確かにそういう気がするが、それでは、どこへ向かっているのか。勿論、旅はいつまでも続いて、終わりはない。しかし、旅という以上、どこかに向かっているはずだが、どこに向かっているのか。この旅のイメージが時に現れては、又、消えるのだ。

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報道(2)

障害者施設で恐るべき事件が起きた。神奈川県相模原市の障害者施設に男が侵入し19人が殺害されるという事件である。詳しく報道されたので、逐一事件の概要をテレビで見た。勿論、驚愕以外の何物でもなかったが、報道を聞いていて、第一に浮かんだ疑問は、この施設の防犯体制はどうなっていたのだろうか、という点である。たしか、40人以上の障碍者の世話をするという施設である。又、見たところかなり大規模な施設である。報道では、賊が窓から侵入したと言う事であったが、このあたりから解せないのである。これだけの施設であり、しかも入居者は身体障碍者と言う事になると、いろいろと不測の事態も起こるだろうし、当然、防犯体制の問題が出てくる。防犯だけではなく、例えば防火対策なども必要だろう。とにかく、第一に浮かんだ疑問は、これらが一体どうなっていたかである。当然ながら、これらは単に紙の上の体制だけではなく、年に一度くらいは職員の共同訓練なども行われていたはずだ。ところが、報道を聞いていてこれらの点が全く取り上げられていないのだ。

と思いながら注意してみていると、報道の2日めになったって、驚くべきことが報道された。これによると、実は、職員のうち一人は何とか賊の目からのがれ、机の下に隠れていたようであり、その職員が、何とスマホのlineをつかって、非番で休んでいた職員に連絡したというのである。なにか、「やばいことが、起きている。すぐ来てもらえないか」というメッセージをlineで送ったらしい。(画面にはスマホを操作する画像が出ていた。こんな画像は実際はあるはずもないがーー。)これには、本当に驚いた。報道では、このlineメッセージを読んだ非番の同僚が、おかしいと思って折り返し連絡を取ろうとしたが出来ないので、やむなく110番連絡をしたーそしてこれが警察への第一報となったというのである。職員の内、ほとんどは、なにかコンビニで売っているような拘束バンドで身動きが出来ないようになっていたようであるが(コンビニで売っているような拘束バンドで職員の多数が縛り付けられ、かなりの時間に亘って電話も取れなかったというのも不思議な気もするが、これは別として)、幸いと言うか偶然というかひとりは逃げおおせていたのだ。とすればその職員のやるべきことの第一は110番連絡のはずだ。lineのチャットではない。これがどうしてもわからない。NHKの報道を、その後も何度も見、フォローしたが、この点についての報道は全くなかった。これだけの施設である。当然何らかの防犯体制は日頃から必要であろうし(実際、警備員もいたようだ)、必ずしも犯罪ばかりでなく、施設内の様々なトラブルもあるはずだ。不測の火事が起きる場合も当然予想される。これらを想定してある程度の定期的な訓練や点検も行われていたはずだーーと思うがこれらは一切何も行われていなかったのだろうか。この事件の第一報が何とチャットとは!

この事件ついては、その後も繰り返し報道が行われたが、上に述べた点に関する報道は驚くべきことに(と筆者は思うのだが)、一度もなかった。そして、報道の主眼は、障碍者の命を思いやるべきだとか、障碍者の心を支えていくべきだと言うような点ばかりである。勿論、これについては、全く異論はないが、この事件で学ぶべきことはそこではない。実際、この事件が、現在の社会の動きやその思想(考え方)の流れの中で、なにか、障碍者を差別するような動きがあり、報道がこれらの社会的な動きに警鐘を鳴らそうとしたのなら、わからないでもないが、いま、日本の社会でこのような動きがあるとは思えないし、この事件は明らかに一つの犯罪行為である。

これだけの施設を管理していて全く防犯(防火も含めて)の初歩的な体制も訓練も行ってこなかった。この管理体制(最終的な管理責任者はだれなのかーそこも知りたいことの一つである)--そしてその責任の在り方こそ問題にすべきであり、学ぶべきこと、そして報道により注意を喚起すべき点である。報道が、なにか見る人の心に訴えるようなものになろうとするのは分かるが、同時に報道は客観的でかつ分析的な面もあわせ持つべきだ。今回の件について、NHKテレビなどで、このような点も併せて報道されれば、全国にある様々な同様な施設管理者にも十分な教訓となり、何らかの改善策が検討される契機にもなるはずだ。

この相模原の施設も、結局は、なにか取り壊すというような方向で検討されているようであるがが、こうして取り壊して、すっきりし、そしてそのうち感情も収まってしまったら、やがて忘れられてしまうと言う事になる事を恐れる。

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情緒的な余りにも情緒的な(報道)

新聞やテレビで様々な事件が報道される。すこし前になるが熊谷市で(215.6)で連続殺人事件があった。最初の事件で女性1人、第二の事件で小学生の女の子を含む女性2人、さらに第三の事件を起こしたところで、逃亡の後、逮捕されたと言う事になっている。残酷悲惨な事件であり、当時繰り返し報道されたが、この報道内容が「情緒的あまりに情緒的」なのである。つまり、報道機関がこの事件の残忍性に触れていることは当然としても、その報道の主眼は、この被害にあった女性たちの人柄や常日頃の態度についてであり、付き合いのあった近所の人たちのコメント等をしきりと繰り返し紹介している。要するに、殺された人たちがよい人たちであった、誠に残念であったというところに報道の焦点が置かれている。とくに、この事件の場合、子供を巻き込んだことからその悲惨さを伝えたかったのだろうと思うが、このような報道ぶりを見ていて一つの疑問が湧いてくる。

事件の家はいずれも、どうやら大通りに面していて、犯人は、この一般道路から門を押すように開いて敷地内に入り、そのまま玄関から侵入、事件を繰り返したようなのだ。ということであるとすると、当然一つの疑問が湧く。つまり、これら被害にあった家には「鍵がかかっていたのだろうか?」という点である。だいたい、このような事件の報道を見る・聞く時は、このような事件についてのいわゆる「世間話的な」話題に関心が向く事はやむを得ないとしても、同時に、報道を聞く側の一員として、将来、なにかこのような事件にみずからが巻き込まれないようにするためにはどうすればいいのか、何かヒントというか、このような犠牲を払って学ぶところはないのだろうかと言う観点からの関心が湧く。上に書いたように、この事件の場合、それぞれ事件になった家の鍵、つまり、防犯体制はどうだったのかと言う疑問である。上に述べたように、犯人は、道路に面した玄関の扉を簡単に押すようにして庭に入り、そのまま玄関を開けて侵入していたように見える。この状態で、仮に、門のところか、或は、玄関にも鍵がかかっていなかったとすれば、要するに、これらの住宅の部屋は、ほとんどそのまま大通りに向かって解放されているに等しかったのではないか。ということを「想定」すると、とにかく門のところにも何か簡単な鍵があり、同時に玄関に鍵がかかっていれば、これほど重大な事件とはならなかったはずだ。実際は、そうではなく鍵があったのかもしれないしれないし、それならそれで、防犯的な観点からの事実関係を是非知りたい。むしろ、公共的な性格を持つ報道機関が、このような客観的というか冷静な分析的なポイントの報道もふくめれば、この事件から多くの人がなにかを学べたはずだ。しかし、報道の力点は、くりかえし亡くなった方の近所付き合いや、親切で優しい人だったのと言うような同情的、情緒的なことで終わっている。この事件のNHK報道に関して言えば、防犯体制(あるいは習慣)と言う事には一言も報道がなかった。(しばらくして、なにかこの事件のフォロアップ的なニュースで、「防犯」と言う言葉を聞いたので、注意してみたら、なにかこの事件の後でひらかれた警察官会議で今後の防犯への努力が議題になったと言うようであり、これは当然であろう。)

その後、夜間の高速バスが道路を飛び出し多くの若い人たちが死亡するという悲惨な事件があった。この事件も繰り返し報道されたが、その内容のほとんど或は報道の力点は、なくなった人が若い学生であり、(皆よい子たちであり)誠に残念であったと言うようなところに置かれている。先日も、この事件後の1年を追う報道(NHK)があったが、この事件で犠牲になった学生の遺族会ができたことや、犠牲になった人たちの遺品などを紹介し、亡くなった若い人たちを偲ぶというような趣旨であった。勿論、この気持ちは分かるがーーどうしてもこれらの報道を聞いていて湧いてくる疑問は、この事件に巻き込まれた人たちが、どれくらいシートベルトをしていたのだろうかという疑問である。このとき、しかっりとシートベルトをしていた客はどのくらいいたのか?特に、実際に事故で亡くなった人のうちどれくらいがシートベルトをしていたのだろうかと言う疑問である。シートベルトをしていれば助かったかもしれないし、あるいはこのようなバスの横転と言うような事故となるとシートベルトなどは何の役にも立たないのかもしれない。とにかくこの様な事件の報道から何かを学びたいと思っても、このようななことについては全く報道がないのである。報道では、かなりの人がバスから放り出されて下敷きになった人もいたようなことが伝えられていたが、となるとなおシートベルトの効果について知りたくなり、自分も今後の教訓にしたいという気持ちにもなるが、このような観点からの報道はどういうわけか一切ない。勿論、シートベルトなどは、被害の有無になんの関係もなかったのかもしれないが、少なくとも、なくなったひとのうち何人がシートベルトをしていたのか、その割合は?助かった人のうちシートベルトのおかげであったと言えるようなばあいはどのくらいだったのか?この件で、知人の若い学生にきいてみたりすると、実際、夜行ともなると、寝にくいとかでシートベルトを外してしまう人が多いそうである。とすれば、なおの事、この点に関するなにか分析的、客観的な報道があれば、非常に参考になるし、多数の人に情報を提供するという報道の重要な役割りもより意味深くなるはずだ。
その後、この事件とは直接関係なく、なにか夜間の長距離運転の際のシートベルトが一部改良されるような報道が出ていたが、このような対策は事件に学ぶという意味では当然である。亡くなった遺族の悲しみの報道も分からないではないが、このような重大な事件についてはもっと客観的で分析的な報道もなされるべきだ。

先日、富山で大きな火災が発生した。この火災事件についてはその規模の大きさからみて強い関心を持って見ていたが、ここでどうしても知りたくなるのは、この火災の発生の原因(火元)である。なにか中華料理屋で鍋を空焚きにした状態で外出したのが火災発生の原因だったようだが、なんとか、この辺ももう少し客観的な事実関係を知りたい。勿論、鍋を空焚きにするなどと言う事はあるべきことではないが、ただ、一般家庭で考えて見て、多少空焚きになってもすぐには火災にはならないだろう。すると、なにか油が入っていたというような「事情」があったのだろうーーと言う事ならば、当然ながら、一般家庭でも改めて油の使い方には気を遣うだろう。この辺がもう少しわかれば報道も別の意味を持つ。報道では、焼け跡で、なんとか元の家を帰してほしいと泣き崩れる女性の映像が繰り返されていたが、(勿論これも重要だが)、同時に報道の観点をもう少し変えるべきだ。

さらにもう一つ、報道では、この火事の中で、なにか、全く被害を受けなかった家もあったようだが、それでは、それは何故だったのか、家の構造なのか、材質なのかー見ている人にとっても多少とも参考になるようなことはないのかーーこのような観点からの報道もあってしかるべきだ。

また、この大火災事件の報道を聞いていて、当然知りたくなることの一つは、火災保険の有効性である。一般家庭も多くは火災保険に入っているとおもうが、この保険は実際どこまで実効性があるのか、大体どのくらいがカバーされるか、保証されない部分はどのくらいか、保証されない部分を減らすにはどのような条項に注意すべきなのか、これらもぜひ知りたい。たしか一か月位してから、本件で支払われた火災保険金が10億円程度であったという保険会社の資料を見たことがある。この火災で大体100件くらいが被害を受けたようであるが、そうなると一軒当たり1000万円位の保障と言う事になるが、これが、実際の家屋の再建にどの程度役に立つのかーー詳しいことは当然専門家やその部門の報告書などを見るべきではあるが、やはり、一般報道の中でも多少の言及があってしかるべきだ。

これは、人命にかかわるような事件の報道について、是非、配慮し改善すべき点だ。つまり、なにかこれら事件の報道が、被害者の悲しみや苦しみを伝え、近所の人たちとの絆を呼びかけると言うような情緒的なものに終わらず、もう少し分析的、客観的で、一つの事件或は経験として視聴者の参考になるようなものであるべきだ。(この稿、続く)

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