文化の差と文明

今後、国際的に活躍する場面が増えてくれば、必ずこのグローバルに活躍する人物は、文化の差、習慣の差と言うものを考えさせられる場面が増えてくる。

以前、こんなエッセーを記事で見たことがある。当の筆者は、日本の国際貿易をつかさどる協会の理事長とも言うべき立場の人であるが、或る時、海外に出張して各国のやはり同じような理事長格の人達とデイナーとなった。隣は、かなり年配の女性である。ということで、座るや否や当の理事長はさっそく名刺を取り出して恭しく差し出した。と、お隣さんはなにやら自分の名前を言ったらしいが、名刺はくれない(というような話からすると出張先は多分ヨーロッパであろう)。ばかりでなく、こちらの名刺をテーブルの上に置いたままである。そのうちにお皿も運ばれてきて、乾杯などとやっていると、当の名刺は、テーブルの上であっちへ行ったりこっちへ行ったりしている。食事の間もそれが気になって仕方がない。そうこうするうちに当のおばさんは、この動き回る名刺のうえに何とコーヒーのお皿をドンと置いてしまった。ついに、当の理事長は堪忍袋の緒が切れて、やおら注意したそうである。名刺と言いう者はその人の顔である、もらったら丁寧に扱いきちんとしまうべきものーーとか。理事長によると、こうして「野蛮な」外人にマナーを教えてやったとやや誇らしげに書いている。しかし、この名刺交換も文化の差と言える。普通外人(西洋人特にヨーロッパ)には、この初対面であわただしく名刺交換するという習慣はないようだ。尤も、現在では次第にこの名刺交換はビジネスで非常に便利だと言うことが認識されて、最近では外人も名刺を持ち歩くことが普通になってきている。この意味では、今では、これは日本の方のお国自慢に入る。

ちょっと意外に感ずる差もある。外国(と言っても英語圏のことであるが)では、黄色Yellowと言う言葉には特別侮蔑的な意味合いがあるらしい。英語の表現で、黄色いパンツをはいてくる、と言うような表現で相手に対する一種の侮蔑を表すという表現があるらしい。これは、英語の勉強の際、多少聞いたことがあるが、実際、筆者は、現にこの表現が使われた場面に遭遇したことがある。ある国際機関で働いていた時、20カ国くらいの政府関係者と経済政策について議論をしたことがある。この時、当然ながら当の国際機関の調査局長が事務方代表として議論に参加していた。政府関係者としては、それぞれ国内の事情、政治的な配慮もあり、必ずしもいわゆる学説的な議論には与しえないところがあり、議論の趨勢はどうしてもオーソドックスな理論からは外れていく。一方、勿論、経済学博士号も持っている当の調査局長としては、まさに異論のあるところであるが、しかし、相手が各国政府関係者となると、立場上、簡単には反駁出来ない。そして、議論の大勢が自分の考えている方向とずれた時、当の調査局長が締めくくるように述べた言葉がーーもし、そのような議論がまかり通るなら、自分は明日から黄色いパンツをはき、黄色いネクタイを締めてくるだろうーー。このしめくくり的な発言に、幾つかの国の代表が多少含み笑いのような表情をしていたことを思い出す。かつて、プロシャ皇帝が言ったと言われる黄禍論(こちらはドイツ語のはず)と言う言葉とつながりがあるのかどうかはわからない。

ところが、次のようなエピソードもある。中国清朝の最後の皇帝溥儀が、満州国の崩壊後、とらえられて共産中国の収容所で暮らしていた時、溥儀の弟が(溥儀には弟がいたらしい)とらわれの皇帝と面談にくる場面がある。その時、元皇帝の溥儀が、話しの途中で、ふと気がついたように弟にいう言葉がーーおまえはなぜそのようなネクタイをしているのか。一体いつから、皇帝である兄の前で、弟であるお前が黄色いネクタイをして面談すると言うことができるようになったのか。正確には、ここで黄色いとは「黄金色」のと言う意味らしいが、弟のネクタイはなにか黄色っぽい色をしており、このような兄の詰問に弟は非常に恐縮する(この収容所での弟の面談の場面は映画「ラスト エンペラー」にも出てくる)。つまり、中国の伝統では、黄金は、まさに皇帝のみに許された色であり、およそ臣民が黄金を思わせるようね黄色っぽいものを身につけることは許されない。しかも目上の人の前で。これはまさに文化の差と言えそうである。

アメリカが第二次大戦前、非常に人種差別的な国であった事はよく知られている通りである。(これには様々な本があるので繰り返す必要はないが、この差別意識が日系移民の排斥につながっていく。そして、これはアジアの盟主を自任する日本の自負心を著しく傷つけ、日本の強烈な反発と、対米戦争につながっていく歴史的な流れについてもすでに多数の本がある)。実際、当時(戦前)のアメリカの移民政策の責任者が典型的と言うか強烈な人種差別を公言していたことも各種資料にあるとおりである(勿論当の人物の名前も知られている)。ついでながら、少し話が外れるが、あの自動車王ヘンリー・フオードがユダヤ人排斥論者であったことは、これも色々な資料に出てくる。フオードは、もうアメリカは駄目で、ユダヤ人に占領されてしまったようものだ、と言っていたらしく、ヨーロッパのドイツに対して勧告している。ドイツはまだ間に合う、アメリカの二の舞にならないように、はやく手を打つべきだ。ヒトラーはアメリカの有力なビジネスマンの言葉としてこれを大変喜んでいたそうである。

ところで、色と言うことになると、我々日本人には多少の誤解がある。つまり、黄色なら、黒い色より少しは白に近いであろうと感じやすいが、ここで、上に述べたような黄色いパンツとネクタイの事を忘れないほうがよい。筆者の自動車免許はアメリカでとったものである(当時はこれをそのまま日本の免許に切り替え可能であった)。最初、免許を申請した時、申請用紙の欄に「race 人種」とある。筆者は多少憤慨の気持ちを感じ、わざわざ州当局の担当部局に電話したことがある。そして、申請にはrace とあるが、自分は日本人だからJapanese と書いて良いかとただしたところ、それで良いということであった。が、その後受け取った免許には Y と書かれていた。なお、疑問に思われる向きもあるかもしれないが、原住インデアンは、Redであり、カリブ諸国の出身者はBrown である。と言うようなことは少なくとも知っておいた方がよい。

ヒトラーによるユダヤ人虐殺についてはいろいろな資料があるが、たまたま手元に「黄色い星」(松柏社)という写真集がある。ホロコーストに関する写真集はたくさんあり、これもそれの一つであるが、ナチスが、ユダヤ人に対してダビデの星をデザインした腕章・マーク(これにはその寸法や付ける位置などにこまかい規制がある)を付けさせたことは知られている通りであるが、このマークの狙いとする差別、侮蔑、蔑称の意図が、これを黄色にすることによって示されている(とこの本は書いている)。

ナチの収容所における囚人に対する刑罰は、残酷と言うにとどまらず、冷酷と言うか冷静に知的に計算して相手の人格・人間を破壊することを狙ったというべき恐るべきところがあり、驚愕させられる。しかし、意外に思うこともある。アウシュビッツ収容所の記録に、囚人に刑罰としてスプーンを渡さずにスープをの飲ませる(御椀というかカップは与えるのだがスプーンを与えない罰)があったようだ。これをやられると囚人は、強烈な人格的な破壊感を受けると言う。「アウシュビッツは終わらないーあるイタリア人生存者の考察」 プリーモ・レヴィ 朝日選書151)に出てくる。--名前に変えて登録番号を用いたやり方。スプーンを配給しないで、犬のようにスープをすすらせたやり方(解放の際、アウシュヴィッツの倉庫から、スプーンが何百キロも発見された)。死体を名もない、ただの原料とみなしてーー(同p242)。これは日本人には妙に感じるところがある。日本では味噌汁の御椀を手にもって(スプーンを使うことなく)飲む(西洋人に言わせると食べる eat soup)のは極普通である。しかし、日本人から箸をとりあげたら、人格的な破壊感を感じるであろうか?

昔になるが、ワシントンでの研修に参加していたとき、その研修メンバーにドイツ人がいたが、その一人が、小生に向かって言うことには、「今回の研修参加でわかったのだが、--アジア人は黄色いと聞いていたが、実際は結構赤いじゃないか。」 なるほど、国際研修にはこういう効果もあるのだ。

最近、日経に連載された利根川博士の「私の回顧録」にも人種差別の話が少し出てくる。この短い回顧録にも顔をだすくらいだから、多分、人種差別について、若き頃と言うか、常日頃なにか感じるところがあったのだろうと思う。

これから、海外で活躍する人たちは必ず文化の差をいうものを感じるし、必ずや考えさせられる場面に直面することになろう。これを単に「差」と受け止めるか、単に差ではなくどちらかを上と見るか。一方を下ーつまり未発達とみるかーーグローバルな人はかならずこの問題に直面する。

唯、昔のことになるが、これは日本より上と感じた文化習慣の差がある。昔、初めてアメリカに行ったころ、当然ながらワシントンDCのホワイトハウスの見学ツアーに参加したことがある。決められた曜日、定刻に列を作って並ぶわけであるが、その中にたまたま身体障害者がいた。なにか足が悪い(短い)らしく、横に長い補助具をつけている。そして、動くたびにこの補助具がガチャガチャ音を立てる。ということで、こちらも気がついたわけであるが、見るとまわりの人は全く気にしていない。どころか、列が動いてなにか段差のあるようなところに来ると近くの人がひょいと助ける。と言う具合で列は進んでいく。当人も周りの人もべつにこれは何でもない、ただ普通のこととして進んでいく。しかし、当時の筆者にはこれは新鮮に見えた。ふりかえって、当時日本ではいわゆる身障者がこれほどオープンに当たり前のごとく社会的なことに参加できたかー出来る風土があったか。このとき、筆者はこのアメリカの方が「上」のように感じた。今では、日本少なくとも東京の風景は全く変わっている。たまたま見かける現在の東京の身障者の自然な姿を見るといつもこの事を思い出す。

亡くなった父親の遺体を食べるか、焼いてしまうかーどちらが上ーーあるいは正しいのか。当のモンテーニュは、何も書いておらず、多少皮肉っぽい感じで見ているが、これからのグローバルな人は、こういう問題と直面するのだ。

もし、このような文化の差、習慣の差というレベルを超えて「全人類」に、共感を呼び起こすということがあるならば、それを文化を越えた「文明」という。そして、人類が文化・習慣の差を超えて「文明」と言うものへと「進化」していくとしたらー日本はこのような文明にどのように寄与出来るであろうか?

追記

この稿の「人種」のことについては、以下のような筆者の経験を追記しておく。

かなり以前、1960年代の末頃であるが、筆者は仕事の関係でワシントンに滞在していたことがある。偶々、仕事の日程が2日ほど空いたので、後学のため近隣の都市・町の様子を見るためにちょっとしたバス旅行をした。さてワシントンに帰ろうと思い、少し遅くなったかなと思いながら夜10時頃バス停についた。見ると確かに既に予定のバスは到着しているらしく、待合室の窓越しにバスの黒い影が見える。行先表示も見える。やれやれよかったと思って、多少慌て気味にバスに乗りこもうとしたとき、バスの前に一人の係員が出てきてこちらを押しとどめるのである。これには驚くとともに多少慌てた。なにしろ時刻表は調べてあるのでもうすぐにバスは出ることはわかっている。多少憤然としてさらに進もうとすると当の係員は、なんと手を出してこちらを押しとどめ待合室に戻るような指示をする。その瞬間、筆者はこれはやられたな、と感じた。薄暗くてよくは見えないのだが確かにバスの中にはすでにいくつかの人影が見える。既に、客は乗っているのだ。出発までにもうあまり時間はないことはわかっているからこれは当然である。にもかかわらず自分は乗れないのだ。何故か?と言っても仕方がないので、待合室に戻ったが、あの時、妙に広々とした待合室(実際、待合室には筆者以外誰もいないのだ)の椅子に座り直すしたときの気持ちは今でも思い出す。そして、定刻になりただ一人待合室からでてバスに乗り込んだ筆者の見たものはーー何よりも先ず、すでに乗っている乗客はそろってバスの後部にいる。おしだまった雰囲気で、中にはなにか膝に毛布を掛けているような人もいる。女性のように見える。そしてこの時初めてこれらの人たちはすべて黒人であることに気が付いたのである。そしてこの時筆者はバス停の係員がなぜ、筆者を押しとどめ、待合室の方に誘導したか、その理由を理解した。筆者が考えていたこととは逆だったのだ。

1960年代の末頃、日本人である筆者がこのように扱われた経験を持つことは、本稿に記録しておくほうが公平であろう。

 

 

 

 

 

 

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