便利なこと、不便なこと

日常生活の便利さということになれば、日本は相当に便利な国に入るだろう。便利さと言うことばの意味を明確・具体的に定義しにくいのでなかなか比べられないと思うが、かりに日常生活の便利さの「指標」をつくって国際比較すれば、いわゆる先進諸国に限っても日本は相当上に(どのくらい上か?)にくることは間違いない。なにしろ、鉄道・電車はまちがいなく時刻表通りに来る。郵便の正確さ、さらに電話システムはどこでも完備しており安心できる。宅配便も時間指定など驚くべきことになっている。すこし前の経験になるが、アメリカの公衆電話は悲惨である。見る限りそのほとんどは故障中である。以前、滞米中に運転免許の更新の問題がありワシントンDCの運輸局に出かけたことがあるが、その時、用事があって電話をかけようとしたところ、一つの壁一面に公衆電話が6台も並んでいるのにはなるほどと思ったが、同時にその5台が故障中となっていたのには驚いた(もっとも、この運輸局に入る入口通路には、門のようにおおきなアラームセンサーつまり銃砲感知器が設営されていたが、これは故障してはいなかった)。ということで、アメリカで携帯電話が普及し始めたのは実に朗報であり、筆者もかなり大型の時代(車に備え付ける)から、さっそく加入した(アメリカで携帯電話が急速に発展したのもこのような公衆電話の不備が一因ともいわれる)。

ということで、帰国後の日本は誠に便利な国と思ったが、それでも誠に不思議なことに奇妙な不便さがある。その第一は電話転送システムがないことである。つまり、104の番号案内で、探している電話番号を聞くと、コール・センターが出て丁寧に対応してくれる。記憶している住所・商号などが必ずしも正確でなくとも、ほぼ間違いなく探してくれる。ここまでは「なるほど日本」という感じで便利なのだが、「それではご案内します」と言ってここで切れてしまうのが誠に不便である。つまり、次に番号の音声が入ってくるのだが、こちらは、あわててこの番号を記録しなければならない。といってもすぐ手元に筆記具があるとは限らず、何度も読み上げられる(3回繰り返される)番号をあわて気味に暗記しなければならない。これには閉口する。番号は、いつも03から始まるとは限らないし、憶えなければならない数字は10ケタを超える。なにか、以前、お寺の境内にいたことがあり、あわてて小石で境内の庭に番号を書いたこともある。こういう経験から近頃は、ようやく番号案内を聞くときは、まず紙と鉛筆を用意!と気をつけるようになったが、得てして、急に番号を知りたいなどと言うときは、歩いていたり出先にいることが多く、しばしば上の寺の境内のようなことになる。これは不便であるとともに奇妙でもある。アメリカでは、センターの女性の案内が終わると、番号の記憶にあわてなくても、「この電話につなぎますか。つなぐときはそのままお待ちください」という音声が流れて自動的につながる。これは便利である。これは、おそらくかなり単純な技術であろう。これが日本で出来ないはずはない。現に経験では、不思議なことに、これまで2回ほど「つなぎますか」といわれて自動的につながったことがある。つまりそのようなシステムは既に日本にはあるのだ。しかし、どういうわけかほとんどは「ご案内します」で対話は切れる。あわてて紙と鉛筆をひっかき回さなくても済むように、是非、変えてもらいたい。

電話の不思議といえば、もうひとつアメリカで不思議なことがある。一つには、番号が判っておれば、英語で番号を読み上げればそのまま電話がつながる。もっと不思議なのはたとえば、NYのホテルを予約しようと思えば、電話口でそのホテルの名前を言うとそのままつながる(これは小生の英語でも通じる)。全く人手を介することなくすべて電話で終了する(もっとも今ではインターネット予約ができるが)。さらに言えば納税も電話できる。たしか自動車関係の州税であったかと思うが、手続きが電話でできるので進めていくと、最後にあなたのクレジットカード番号をどうぞとなるが、これもその数字を読み上げる。これで納税完了である。(クレジットカード番号を読み上げるのはなにか危ない気もするが、これはカード会社からの請求の時、不正と思う支払は拒否でき、その手続きも簡単で比較的当たり前に行われているので、それほど心配することもない。特にAMEXはこのようなクレームに親切で、誠意があると言われていた)。こういうことがなぜ日本ではできないのかよく理由は分からない。思い出すのは、いまやはるかな以前のこととなってしまったが(憶えておられるだろうか)、森内閣の電子政府構想である。これで政府関係の手続きは遠からず、すべて電子化されるだろうと喧伝されたが、いまやどうなったのか。このことについては、野口悠紀雄氏が批判的な本を書いている。つまり、日本の電子政府化はその名に値せず、結局、いまだにプリント化(紙媒体)が必要であると指摘している。例えば、パスポートなどの関係で、戸籍謄本が必要となると、なるほど請求手続き表は市役所のホームページに出てくるが、結局は、これをプリントアウトし、手書き記入の上、返信用の封筒も入れて郵送することになる。確かに野口氏のいうとおりどこが電子化なのか疑問になる。最近になってeーtaxも少し身近になったようであるが、その普及となると道はまだ遠いようだ。ということで、アメリカは妙に便利なところもある。

妙に便利だということになると、アメリカでのコインの両替である。アメリカでは、ほとんどの買い物はクレジットカードで済ますのでコインをやり取りすること非常に少ないが、それでも10セント、クオーターなどのコインが溜まってくる。これは、ご存知の通りきわめて厄介なものである(要するにとにかく重くて始末が悪い)。日本ではどういうわけか、現金決済が主流であるので、とにかくものすごい勢いで硬貨がたまる。何しろ、決済の際、「コイン入れ」(これは実にかさばる)をかき回して100円、10円と拾い出すのも面倒なので、つい紙幣を渡すことになりお釣りのコインが溜まってしまう。そもそもポケットから(例えばであるが)なにかアニメ・キャラクター風のかわいい「コイン入れ」を取り出すというのも、ゼントルマン風でないという感じもして「コイン入れ」は一切持ち歩かないので、背広のポケットがだんだん曲がってきてスタイルが気になる。ということで、機をみて袋にほり込んで整理しているが、ほどなくこれはものすごい重さとなる。これらのコインをどうするか。

そこで、まず日本のことを述べると、この重い袋を抱えて近くの銀行支店にいく。あまりに重くて遠くの銀行には行きにくい。とにかくえっさえっさと持っていき、銀行の受付の店員に両替を申しいれる。順番になり窓口の店員に事情を説明すると、預金通帳をお持ちですかと聞くので、勿論、といって提示すると、何やら操作をしてカードをくれる(これは預金口座番号と連動しているらしい)。そして、どうぞと隣の両替え室(ドアを閉めた別室である)に案内される。そこにはかなり大型の装置が置いてある。店員が一通りの説明をして出て行くので、ここでようやくコインの袋を持ち上げて大きなトレイにざらざらと受け、次いで装置のふたを開いてしかるべきところろにトレイから流しこみ、ボタンを押す。するとものすごい高速でコインの仕訳と計算が始まる。終わると0000円でよろしいですかと出るので(実際は数えていないのでわからないのだが)OKですということで、窓口でもらったカードを指定されたスリットに通すと、自動的に預金通帳に入金記載されて終わりとなる。この精密なコインの高速処理にはさすがと驚くが、実は、実際には以上のようにはいかない。必ずと言ってよいほど、この恐るべき装置は何か異常を検知して途中でぴたりと止まる。こうなると厄介である。こちらは、わけがわからないので、先ほどの窓口の店員にあわてて連絡し来てもらう。大体はなにか異物ーー例えば、どこで紛れ込んだかボタンなどのこともあったし、多少変形したコインは、すべてはじき出される。どういうわけか外国のコインが紛れ込んでいたりもする。が、実際には何が原因かすぐには分からない時がある(機械が人間以上に精密なのだ)。こうなると窓口の人では対応できず、インターホンで連絡を取り、事務棟にいる担当者に連絡を取る。待つほどに専門の担当者があらわれ、装置のふたを開けたりして処置が済むとあらためて(どういうわけか)一部計算が済んだ分も含めて最初からざらざらと入れなおす。というわけでうまく最後までいくと思わず「オー!」という感じで感激である。係員には丁重にお礼を言い、軽くなったかばんを持って帰る、という次第で、つまりこれは一仕事である。勿論、ATMでもできるのではないかと言われそうだが、実はATMでのコインの預け入れは一回100個(一円玉も含めて)までの制限があるので、とてもこんなことはやっておられない。

そこで、アメリカであるが、不思議なのは、このコイン両替機が主なスーパーに置いてあるということである。これは便利である。コインが溜まったなと思ったらスーパーの買い物の帰りに、コインをこの機械にざらざらと入れる。現金にしますか、当スーパーの割引購入券にしますかと聞いてくるので、仮に現金と押すとゾロゾロとなにか古びたようなドル札が出てくる。もっとも、買い物のワリドク感があるので、スーパーの買い物券に換えることが多いが、こんな風にぞろりと現金が出てきてよいのかとも思う。どういうわけか、この機械は馬鹿でかくこちらの身長位はある。一見ブリキでできているような印象であまり精密な感じはしない(つまり、装置と言うより機械と言うにふさわしい)。が、これで用が足りるし、なんといっても買い物のついでにチョイとやればよいわけで実に便利だ。日本のスーパーではなぜやらないのか不思議である。割引券を出せば客足も増えるだろう。このようなアメリカと日本の違いは、なぜ生じるのか分からないが、印象としてはアメリカのシステムでは、多少の間違いがあっても、それほど大きなものではなかろうというややいい加減な「思想」があるような気がする。

ところで最近、いつも行く近所の銀行支店が建て替えとなった。遠くに行くのは、上に書いたように重いので、このところは、まずます膨らみ重くなってくるコインの袋を抱えて、銀行の建て替え工事の進展を眺め、早かれ、と待っているところである。不便なことである。(なお、日本ではSUICAがあるではないかと言われるかもしれないが、これは不思議である。SUICAには2万円が入るが、これは前払いであり、これを使いきるにはほぼ2週間はかかる。とすると、只で現金を預かっているSUICA側は、この余裕期間の間がっちり儲ける・運用する機会があるわけだ。確かに、これは便利だがありがたがる必要はない。クレジットカードは後払いだからこの逆である)。

便利ということを言えば、どうしても忘れられないのは、アメリカの大学の教科書(いわゆるテキスト・ブック)の便利さである。これこそまさに「超」便利である。導入から始まって現在の標準的な理論まで実に懇切丁寧にステップ・バイ・ステップで書かれている。まさに、文字通りこれを読めばわかる。たとえ独学でも必ず一定の水準に達する。そのかわりひどく分厚く(経済学関係ではだいたい500から600ページはある)そして値が高い。大体100ドルは超える。これに比べて日本の大学、例えば法学部では、学生用の売店で科目別に教科書を売っているが、これは大体において簡素・簡略なものである。読んでもあまり判らないし記憶に残らない。要するに詳しいことは講義で述べるからこれをまじめに聞けという仕組みのようである。しかし、講義には、必ずしも全部出ているわけではないーーという向きには、教科書の「同じ出版社」から「同じ著者」で本格的な(つまり詳しい)参考書を売っている。結局、これも買わなければならず、それならなぜ最初から完結した教科書を売らないらないのかと思うが、要するに肝要なことを知りたければ講義を聴けという思想がその背景にあるようだ。

アメリカの教科書が、なぜそれほど詳しく懇切丁寧なのか、考えてみるにーー

1.アメリカの高校生の学力レベルが一般的に低いので、これを補うようにはじめから懇切丁寧に書く必要がある(つまり、学力の差。いかにもありそうな説である)。

2.学生はさまざまな国から来ている可能性もあり、つまり学生の多様性を前提にするから。そもそも、入学の方式も学力だけで決まるわけでもないという背景もある。

3.アメリカでは、一般に教授は教育に熱心である。つまり、 「研究」と 「教育」という大学の任務の中で 「教育」の占める比率が高く、学生の評価の問題もある。つまり立派な教育をする教授は人気もあり、それなりにrewardもがあり大学で(あるいは社会的にも)立派に地位を確立することができる(この点は、最近の日本の大学改革の議論の中でも繰り返し指摘されている。日本では研究重視であり研究の片手間に教えるというのが普通だそうである)。例えば、白熱教室のマイケル・サンデル教授も生徒の教育という点で大きな業績を上げているように見える。

4.もっと基本的には、アメリカの教育ではきちんとステップを組み卒業生の品質(ここまではきちんと身についているはずだ)を保証するというような姿勢がある。

ということが考えられるが、さらによく見ていると、

5.アメリカの教科書は大変な競争にさらされている。筆者が大学で担当していた国際金融の分野でも驚くべき懇切丁寧な教科書がある。為替レートがドル100円(A)から150円(B)になった場合の変化率の計算方法まで説明している(これは原則[B-A]/Aであるが、外貨建てで計算するか自国通貨建てで計算するかで結果は全く変わる)。各ポイントについて詳細かつ実にうまくできた練習問題もある。さらにはこちらを教授として登録しておく(このためにはこちらの大学名を明記する必要があるが)と練習問題・解答、教え方などの最新の動向についてのフォローアップ(例えば登録したメールアドレスに送付されてくる)もあるというような具合である。そしてこのような教科書はいくつかあり(インターネットを通じて)、結局世界的に競争し合っている。確かに教授としても評判の教科書を書けば「名前」も上がれば実入りも多かろうと想像する。日本でもいくつか「概説書」が出ているが、とてもこのように世界的に競争しあっているとは思えない。ということで、いまでもなにかアメリカのマクロ経済学、ミクロ経済学の教科書は捨てがたく手元に置いている。これは便利である。

大学で教壇に立っていたころ、夏にはイエール大学から車で4-50分のところに長期滞在していたことがあるので、何かでイエール大学のそばに行くときには、必ず大学のそばの教科書(だけの)中古書店によることにしていた。よい教科書にめぐり合うと実に便利なのだ。上記のように大学の教科書は高いので、この教科書中古販売だけでビジネスが成り立つらしい。これには便利した(ハーバード大学のそばにもある)。

実際、アメリカで学部教育を受けた人たちと話をすると、異句同音に、アメリカの教科書の便利さとありがたさを話す。とにかく、これにかじりつけばついていける。アメリカが誇るべき便利さであろう。日本でも大学改革の議論とともに、教科書もこのようになってもらいたいものだ。たぶん、日本に留学してくる外国人も助かるはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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