ダーウインが来た

NHK日曜日夕刻7時半からの番組に「ダーウインが来た」という番組がある。動物というかさまざまの生物の生態を紹介する番組である。NHKとしてもかなり金をかけた番組のようであり、生物学あるいは動物行動学の最新の知見も紹介していている。おそらくこれは人気番組の一つなのだろう。それはこの番組の放送時間帯でもわかる。まさに、日曜日、夕食を終えた家族がそろって見ているという姿が想像できる。

ということであるが、長年この番組を見続けてきても、いまだに収まらないというか消えない違和感がある。つまり番組を見た後で妙に批判的な考えが湧いてくるのだ。簡単に言えば、あの動物の捕食の場面が耐え難い。番組ではどういうわけか、この動物の捕食行動を「狩り」と呼んでおり、実に荒々しいこの狩りの場面が出てくるが、この時、「狩りが成功しました」と、担当のナレーターが実に明るい声を上げる。このナレータの明るい声が何度聞いても腑に落ちない。

よくある場面の一つで、先日もチーターが猛烈な追跡でトムソンガゼルの子供をつかまえる場面が出てきたが、これが実にすざまじい。当然チーターは全速で逃げるガゼルを追うわけであるから、最終場面は逃げるガゼルの後足をひっかける形となりガゼルはもんどりうって仰向けにひっくりかえる。そこをがぶりとやるわけであるが、これが実に克明に映し出され、なにか足の内側まさに白く柔らかい内股のところをがぶりとやる。これを見ているとこちらも足の内股がむずむずするような気分になる。そしてナレーターはいつものとおり「狩りが成功しました」と明るい声を上げる。この対比が耐え難いのだ。確か、以前の番組で、チーター(豹だったか)が捉えたガゼルの子供を木の上に引きずりあげ、安全を確保してから食らいつく場面があった。この時、妙なことにチーターが、ガゼルの子供の骨をかむ音が入ってきた。これはちょっと正視できない場面であるが、その時ナレーターが「おいしそうに食べていますね」と述べたのは何とも参った。

という風にみていると、先日まさに「究極の恐怖」の場面を見た。なにか、これは鋭いくちばしをもった大型の水鳥の成長の過程を追っており、その捕食行動の場面であるが、この捕食の対象となるのが、同じく海浜に巣を作る小型水鳥である。これが海辺の島の岸壁のようなところに穴を掘って住みついている。この穴の中で、この小型水鳥の雛は育つわけであるが、この穴は、番組の解説によると(この穴の解説画像も出てくるが)、ある程度掘られたあとは行き止まりとなっている。小型水鳥の雛はこの行き止まりの穴の底でじっと身を潜めている。この身を潜めじっと音を立てないことが、この雛の最大にして唯一の自己防衛策である。それこそ羽音も立てない。大型の水鳥は、その成長の過程でこの雛を狙う。しかし、実は穴は岸壁にほとんど無数と言っていいほどあり、どの穴に雛がいるかは一見全く分からない。そこで、捕食者たる大型水鳥の方は、この穴を一つ一つ見ていく(実際ひとつづつのぞいていく)。この時、穴の中でなにかかすかでも音がすれば、まさに雛つまり餌があるわけだ。穴と言っても多分数十センチ程度である。穴の中にいる雛はもちろん絶対に逃げ場はないわけであるから、ただひたすらじっとしてとにかく音を立てないようにするわけだ。見ていると大型水鳥はひとつづつ穴の中に首を入れ、あの鳥特有のしぐさである耳を傾けるようにしてじっと聞き入る。勿論、このような気配があれば雛のほうも固く身をひそめ、音をたてないようにするので、簡単には聞き分けることができない。つまり、大型水鳥としてもなれない子供のうちは聞き分けがむつかしく、偶然、中に雛がいたとしても見過ごしてしまう。このようなときは雛はほっと胸をなでおろす(であろうと思う)。しかし、大型水鳥は成長するに伴って感覚も鋭くなり、ついに雛が息を潜めている穴を見つけ出す。と、この若い大型水鳥はやおらこの穴を崩し始める。すこしづつ。まさにこの場面が映し出されるのだがーー雛は絶対絶命である。ついに発見されたのだ。穴の中である以上逃げ場はない。一方、大型水鳥にとっては絶好の捕食の機会であり、少しづつしかし確実に穴を壊して近づいていく。と分かっていても雛には逃げる途はない。そして、ついに大型水鳥の巨大なくちばしが雛の前に現れる。と、明るいナレーションが入る。「狩りに成功しました。すっかり狩りが上手になりました」。これは全く何とも言えない場面である。穴は少しづつ壊される。ゆっくりと時間をかけて、そして、絶対に確実な死がちかづいてくるーとテレビを見ている側は感じる。これが何とも耐え難い。ナレーションの明るい声が耐え難い。

「ダーウインの種」の起源では、知られている通り適者生存が説かれている。適者生存つまり適応とは、要するに捕食という現実とこれを生き延びるための適応であり、ダーウインが書いている通り、動物にとって適応と死とは表裏一体である。つまり、死がなければ適応つまり生はない。この点、「種の起源」には印象的な言葉がある。そのまま引用するとー

ーーわれわれはこの闘争について考えるとき、自然の闘いは絶間ないものではないこと、恐れは感じられないこと、死は一般に即刻のものであること、そして強壮で健康で幸運なものが生きのこり増殖することを、完全に信じる事によって、自分をなぐさめることができる。第三章 生存闘争 (末尾の文章)「種の起源 岩波文庫」

確かに「死は、一般に即刻のものであること、恐れは感じられない」であろうーこれは印象的な言葉であり、なにか輪廻の世界のようなある種の重みも感じる。とすると、この海鳥のようにゆっくりと、しかし、確実に迫ってくる死という例は珍しいのであろうが、しかし、それだけに心に迫る。

勿論、生物は生物を食べなければ生きていけない。筆者も魚も肉も食べる。しかし、釣った魚はどんな場合も必ずきちんと食べることにしている(必要以外は放流する)。食べる時は、眼鏡も(読書用に)替え、先のとがった「日本の箸」できれいに食べる(いつも日本の箸の先が細くとがっているのにはなるほど理由があると感心する)。そうは言っても、生き物を食べるときには生の連鎖とその重みを感じる。

先日ある会合で年配の女性つまり家庭の主婦と思われる人と立ち話をした。その時どういう関連かこのNHK番組の話となったとき、その女性(主婦)は、あの「ダーウインが来た」はとても見るに耐え難く、いつもこの番組になると切ることにしているーーとか。これは多少意外に感じた。この番組の狙いは、おそらく上にも書いた通り、日曜日そしてその時間帯からして、家庭の団欒の中で「楽しまれている」評判の番組なのだろうと思っていたからである。この番組が、このように家庭の団欒から排斥されているとしたら。この番組のシナリオを書いているライター・担当者はどう思っているのだろうか。

と言うように考えると、仮に人間が動物を食用に処理する場合でも、これは厳粛なものであり、そのための単なる形式とはいえ一つの「形・形式」が必要であり、あった方がよい、と感じる。普通、食べる前には、いただきますといって一つの形式をとるのは(というマナーを子供に教えることも)このような意味を持つ。

イスラムの教えにはハラル食品と言うのがあるらしい。このハラルは、動物を処理するときには、なにか一定の儀式(頭の向きをどちらかにするとかあるらしい)に従うことを求め、また処理の間は、常になにか祈りの言葉を流すというようなことが求められるらしい。詳しくはわからないし、これはなにか大変厄介なことのように思うが、上にみたように考えると、確かになるほどと感じるところがある。ハラルにそのまま従うかは別にして、少なくとも心の中のハラルは必要だ。

さて、次に、この番組の耐え難いところは、動物の行動・生態を人間あるいは人間の社会になぞらえて語るところである。これは多少度が過ぎている。以前にもこの稿で触れたところであるが、しきりと動物たちの恋の季節や愛の季節などと言うナレーションが入る(愛とは何か?これは古今東西の文学・哲学或は神学のいまだに語りつくしえない永遠のテーマではないか?)。勿論、人間も動物の一つであることは間違いはない。が、あまり動物を人間になぞらえるべきではなく一定の限度を置くべきである。というより厳粛な事実として動物と人間とは(非常に似てはいるが)峻別すべきものである。なにか、2匹の猿のある姿を映して「実に仲睦まじいですね」などとやられると、疑問が湧いてくる。

ダーウインの「種の起源」は、まさに適者生存の姿を書いている。確かにこれを読むと、これは、厳然かつ厳粛な自然(つまり人間も含めた生物)の法則ともいうべきものであることがわかる。しかし、動物の社会あるいはその行動を見て、やはり同じ生物ではないか、というように人間あるいは人間社会にもこれをなぞらえていくことは実に危険である。これはいわゆる「社会的ダーウイニズム」とも言われ分野であるが、この適者生存が、一種の類推で人間・社会に適用されていくととどのようなことになるかはナチス時代の優等民族(人種)などの思想を少しでも垣間見ればわかる。これは実に恐ろしい物語である。

思い出せばきりがないが、ある山岳民族(勿論、これは劣等民族であるから滅ぼされる法則の下にある)の子供たちが2ー30人ほど集められる。そして、ドイツ・アーリア民族(これはもちろん優等民族であるから勝ち残り繁栄するはずのものである)の子供たちと、一時的に同じクラスに入れられる。劣等民族がどの程度優等民族に適応していけるかを見るという、これは実験である。2-3か月もすると一緒に遊んでいたこれらの子供たちはすっかりお互いに慣れ親しんで一つの校庭でにぎやかに遊ぶようになる。そしてこの姿をじっと観察している研究者がいる。そして、この観察記録を克明に残し、数か月後にはこれら山岳民族の子供を再び選り分けて、ガス室へと送り込む。この観察記録をまとめた研究者(女性)はこの論文によって博士号を取得した。さらには、恐るべき骨相学(ユダヤ人や劣等民族特有の骨相に関する正式の講義がドイツの大学で教えられていた。その教科書の写真なども記録されている)。同じ流れから優性法なども生まれてきた(もっとも優性法自体は1930年代に北欧ノルウエーなどの断種法に始まっている)。

ヒトラーは、その遺書で、ドイツは負けたのであるから弱小民族であり、もはや生存するに値しない。したがって、これからのドイツ民族のためにその生存に必要な施設や設備・建物などは何らも残す必要は無い、すべて破壊せよーーと書いている(これをあるドイツ人の友人から聞いたとき筆者は、驚愕したが、実際その後の歴史書によるとその通りであったことがわかる)。

バートランド・ラッセルも、その「西洋哲学史」で上のようなダーウインの「種の起源」が(思いがけがけなくも)もたらした優生学的な思想に強い警告を発している(この西洋哲学史は大戦中の1943年に書かれている)。さらに、上記のような「政治的ダーウイニズム」のみならず、いわば市場を中心とした「経済的ダーウイニズム」つまり自由競争の原理(競争による淘汰)とも混同されてはならないと論じている。つまり、自由経済が認められる以上、結局、人間は競争をし適者が勝つということはやむを得ないことであるが、かりに結果として弱者つまり敗者に、すざましい貧困を生み出したり、これら貧者の生命も奪う事となることは、人間として認めることはできないと述べている(自由に競争してもよい。しかし、人間の場合は決して「腰からしたは殴らない」というルールのもとで行われるべきものである)。この様に人間としてのあるべき尊厳を考えると、いわゆる資本主義経済(つまりは自由主義経済)の下で始まった社会福祉政策(セイフテイ・ネット)は、マルクスの述べるように非科学的でも又空想的なものでもなく厳粛な人間認識の下にあるのだと、理解することができる。

さらに広く、「文化的ダーウイニズム」という問題もある。つまり、偉大な人物(つまり強者)は弱い人間を支配し、場合によってはこれを抹殺(殺害)することも、許される、あるいは、ラッセルの書いているように、「--戦争の勝利者およびその後裔は、敗北者よりも生物学的に優れている。したがって彼らが(生き残り)すべての権力を掌握し、世事をまったく自分たち自身の利益のために運営することが望ましいのだーーラッセルはこのような考え方を、結局は「種の起源」の流れからくるものとしており、この流れは超人を説くニーチェ哲学の倫理観でもあるとしている。またこのような言わば偉人の特権を認めるような思想は、ナポレオンニイズムともいわれ、これはドストエフスキー「罪と罰」の主要テーマである

動物或は動物社会を人間(社会)になぞらえることには明確な限度がある。人間と動物はやはり峻別しなければならない。繰り返しになるが、救命ボートに群がる人の誰を切り捨てるかーーいかに生き残る人を選ぶ(生者と死者を分ける)かということを決めるような原理を人間は持たない。強いものが(或はうまく適応したものが)生き残るというような選別の原理は人間には絶対に適用できない。ここを間違えると20世紀が経験した恐るべき事態を招く。

ところで、人間と動物を峻別するにしても、それでは、そもそも人間と動物を区別する基準は何なのかというより根源的な問題がある。これを間違えると大変である。かつてマルコポーロが書いているような東西交流の時代さらにマゼランの大航海の時代が始まり東洋が一挙に西洋の世界に開かれたが、この時は西洋文明が接触した東洋の文化水準・内容からして、「東洋人が果たして人間」かという問題は発生しなかったようである。尤も、この頃の西洋博物学と分類学はまだ未開拓の分野があり、同じ人間にも「穴居人」(これは明らかに劣等人種を含意している)など3種あるとされていたようであるが、結局、その後の博物学の発達とともに、現在は「人種はひとつ」、「人類は一種」と言うことが確定している。最近では最新の分子生物学の知見からも人類は一種であることが判明している。(現在しばしば、人種と言われているものは、この意味で俗称であり、これらは亜種と言うべきものである)。

しかし、歴史上この問題が具体的な疑問となったことがある。アメリカ大陸の発見とともに西洋文明が遭遇した南米の原住民インデイオである。この時、実際に、これを人間と考えるかどうかについて調査するためローマから使節団が派遣されている。この頃の動きについては思い出す映画がある。タイトルは「ミッション」。これはあるカソリックの神父が、このインデイオを人間として扱うかどうかどうかという問題に遭遇し、実は、インデイオが音楽に反応すると知る。そしてその時、その神父は、仮に音楽に反応するならば、それは人間であると確信する。そして、単身、現地に出かけ小川の流れに浮かんだ岩の上で一人でフルートを弾く。この音楽を聴いて、インデイオたちが次第にこの神父の周りに集まってくるという物語である。そして神父は、ここに理想的な神の共同体を作り上げる。しかし、これはローマから見ると絶対に許せない。教区の線引きあるいはその運営はローマの決定に従うべきものである、結局、映画では、このインデイオたちの美しい村は火を放たれ決定的に破壊される。そして当の神父は十字の形をした木に張り付けられ川に流される。川は急流となり、滝となる。そして神父を乗せた十字架がまっさかさまにこの滝を墜落していくところで映画は終わっている。ー尤も、これは余談

人間とは何か?勿論モンテーニュの「随想録」(1580年)に現れる様々な人間の姿は興味深いが、やはり人間は理性を持ち、そして極めて重要な点であるが「理性は人間に普遍的なものである」と論証したカントの哲学をよく考えるべきであろう。

このNHKのお茶の間番組のシナリオを誰が書いているのかはっきりは分からないが、動物のある種の行動・繁殖活動や動物同士における一定のコミュニケーション行動をあまり人間になぞらえるべきではない。そのためにはこの番組で使われるあの軽い「のり」のような言葉をやめることである。同じ生あるものには変わりはないとしても理性ある人間は動物と混同されるべきものではない。一体、この番組を子供と一緒に見ている親たちは何と言って(説明して)いるのであろうか。人間は生物であると同時に文化・文明を持つ。である限り生物界の原理はそのままでは適用出来ない。

人間は理性を持ち、文化・文明を持つがゆえに動物からは峻別される。ダーウインの適者生存は人間には当てはまらない。とすると、当然ながら、これから人間は動物・生物として果たして「適者生存」していけるのか、という疑問が湧く。いずれ人間が文化・文明を持つということが、(適者生存の例外を生み出していき)動物としての弱さを生み出していくというような事態となることは当然に、想像される。既に、生物学的な知見によれば、これまでの生物としての歴史の中で人間の雄の繁殖力は明らかに下降しているそうだ。勿論、人間の文化・文明は生存のための環境を逆に変えていくことができるとしても、これには当然限界がある。と考えると人間が動物と峻別されるということは、いずれ人間の生物学的な生存能力は動物より低いという時が来ることににならざるを得ないわけだが、これは生物としての人間の自然における位置づけなのだと考える以外にない。

日曜ごとにこの「ダーウインが来た」を見ていると、上に書いたようなことが頭の中を駆け巡る。あのナレーターの明るい「のり」にはとてもついていけない。

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