紅白歌合戦

毎年この頃になるとそろそろ話題になる時期だと考える。年末のNHK恒例の番組「紅白歌合戦」のことである。果たせるかな、先日の日経夕刊に今年の「紅白歌合戦」の司会者が内定したという記事が出ていた。ご存じのとおり、毎年、年末になると出演者を紅組、白組と分けて大騒ぎをする。つまり、男組、女組の対抗戦である。もう少したって年末に近づくと次第に騒ぎは大きくなる。しかし、それを見ているとどうしても奇妙な感じに襲われる。

何が奇妙なのか?要するに、この男組と女組につまり、出演者を男と女に分けることである。ただ分けるだけでなく歌で対抗させる(つまり対比させる)。ーこれを見ているとどうしても疑問が出てくる。男組、女組?これは何なのか。それでは、男でもなく女でもないという人はいないのか。或は、男でもあり女でもあるということはないのか。そもそも、一体、男とか女とか、これはどのように区別するのか。区別できるのか?そのような基準はあるのか?この紅白歌合戦のニュースが熱を帯びるほど、ますますこちらはなにか白けた気分になる。

一体、人間は男と女に分けることができるのか?こういう事を言うと、直ちに、全くバカなことを言う、大体、こういう事を言う奴がいるから、近頃の世の中はおかしくなるのだ、という声が聞こえてくるような気がする。このような反論・苦言は十分承知なのだが、本当に人間を男と女に分ける事ができるのか? 見ている人は必ずどちらかの組に属するのだろうか? ちょっとした番組ならともかく、NHKが、しかもなにやら年末の一年を締めくくる多少国家的(国民的)ともいえる大イベントとしてやるとなると何とも解せないのだ。

話は飛ぶかもしれないが、人間に対する生物学的、文化的あるいは社会的な知見・認識は急速にかつ確実に変化している。という目から見ると、この日本の年末の大騒ぎは不思議である。

少し歴史をさかのぼることになるが、1980年代のアメリカでは、ミス・アメリカというイベントが国民的な人気を呼んでいた。ところが、1980年代の半ば頃から、このイベントに対する風向きが変わり始める。要するに、一つの疑問が出てきたのである。このイベントは要するに水着姿の女性を歩かせてこれを品評するということではないのか。しかも、その審査員はほとんどが男性である。ミス・アメリカが注目を集めていただけに、この議論は白熱し、当時アメリカに滞在していた筆者には実に興味深かった。こうして、社会的な批判は次第に高まり、ある年には、これに反対する陣営は、それでは同じことを男についてやって見せるということとなり、確か1980年代末には、ミス・アメリカの最終選考の行われる会場の隣で、ミスター・アメリカ(ここでは勿論マッチョな男性が水着で出てきて品評される)が開催されるまでの騒ぎとなり、筆者もこのニュースを見て苦笑した記憶がある。というような歴史を経て、今ではミス・アメリカのイベントは、すっかり変わっている。今では、この審査では、出場者のスピーチがあり、これに対する質疑応答があり(この受け答えは記録され公表される)、更には自分の持っている特別な能力を披露するという「タレント」という項目も加わった。(実際に実技も行う)。つまりミス・アメリカのコンセプトが変わったのだ。ところで、先日あるパーテイでこのようなコンテストの国際版であるミス・インターナショナルの日本人審判委員をしているという人に偶然会った。こちらから多少議論を吹きかける感じで女性を品評するということついて異論はないのですかと、聞いてみたところ(予想された通り)大変な反論を食らった。今では、これは単なる女性の品評会ではないのだ云々とーこの反論を聞いていて、まさに上に述べたような、このミス・アメリカ(或はインターナショナル)の経てきた歴史(と同時に女性というものに対する認識の変化)を再度確認させられたような気がした。かつて戦後間もないころ、女性の体形について8頭身なる言葉を初めて聞き、大いに感服した記憶があるが、そのような人間(女性)認識は遥か彼方に去ったわけである。

1980年代の半ば頃は、マニラの国際機関にいたが、その時アメリカからさる政府高官が赴任してきた。さっそくながら、その後、その新任のアメリカ人からパーティの招待状を受け取ったが、その招待状の書き方が、例えばであるが、Mr. A.Brown and Ms. C.Daniel が招待するーーというような表記になっていて非常に戸惑った記憶がある。大体、招待状は、夫妻の場合、Mr.and Mrs.A.Brownがお招きする、つまり、この夫妻名で出されるのが普通(と言うか当たり前の事)である。気になって、周囲の人に聞いてみると、この新高官は明らかに結婚しているらしい、とするとこの招待状は?実は、これが、筆者として初めて夫婦別姓というものに出会った最初である。これは1980年代半ば頃のことであるが、この夫婦別姓も、今ではそれほど驚きではなくなってきており、日本でも事実上社会的に認知され始めている。この例は社会制度の問題であるから、やや趣が違うが、しかし、やはりこの裏には人間に対する認識の変化がある。

そう言えば、この女性を既婚・未婚の区別なくMs.として記載するのも、比較的新しい表記法である。筆者が1970年代半ばころに海外勤務していたころはこのような表記は意識しなかったので、多分この表記が一般化するのは1970年代の後半ごろからと思う(ちなみに、ウーマンリブの先駆的な雑誌 Msが発行されたのは1972年だそうである)。しかし、今では当然広く認知され、すでに英語の辞典にも掲載されている。

レインボー・フラッグの人達もいる。レインボー・フラッグとは男性同士が一つの家庭として暮らすことの印(虹のような7色の線が入っている)である。かつてこのようなことは、一般的に排斥(或は疎外)されていたことは周知のとおりであるが、次第に、これも社会的にもまた人間の生き方としても、さらには生物学的にも認知されてきた。確か、サンフランシスコには、この旗を掲げた一画(街)がある。この区域は、このように言わば既存の性を超えた人たちの集まる街だそうであり、この旗はそのシンボルとなっている。1970年代には、このようなフラッグも社会的に認知されたそうで、時に、アメリカでも新聞記事になったりするが、どちらかと言えば犯罪事件の少ない、穏やかな人たちが暮らす街というようなイメージとなっている。筆者は、1990年代の半ば頃、ボストンに近いタウンの一角に住んでいたことがあるが、このタウンの裏側つまりベランダ側は小さな湖に面していた。ということで、よくベランダに出て眺めたが、そのベランダの一つにレインボウ・フラッグがかかっていた(つまり表ではなく裏窓側にかかっていたわけであるが)。が、別に何ら問題もなく、自然な姿であった。

最近の日経新聞が、アメリカにおけるトランス・ジェンダーの動きを記事にしている。当然ながら、この問題は同性による結婚をどのように扱うかという問題にもなりつつある。最近のniftyニュース記事によると。アメリカでは、最近新しく南部バージニアなどの10州において同性婚が認められることとなったそうであり、これでアメリカ50週のうち30州(つまり過半数)で同性婚が認められることになった伝えている。

日本でも、例えば性同一性障害の問題が一般に議論されるようになってきていることは周知のとおりである。

少し視線を広げてみると19世紀に入ってフロイドが人間の無意識の世界を見つけ人間認識についての驚愕的な世界を切り開いたといわれる。いまや人間認識も、かつては自明のことと思われた性(男と女)を超えた世界へと広がりつつある。この様にトランス・ジェンダーあるいはユニ・セックスともいうべき新しい地平あるいは認識の中に浮かんでくる人間をどのように理解するか。そしてそのような人間認識を文化的、社会的に受け止め、新しく位置づけしていくことが必要になりつつあるわけだ。このように考えると、これはこれまでの人間の歴史の中では位置づけられないような言わば驚愕の世界へとつながっている。

というように考えると、年末のなにか一大イベントとして、男組と女組に分けて国民レベルで大騒ぎしているこの姿は奇妙に後ろ向きに見える。このようないわば日本をあげての「紅白歌合戦」の大騒ぎは、いずれなにか気恥ずかしいとまではいわないまでも、気まずい気分を伴うものとして受け止められていくようになるだろうと予想する。

 

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