新聞の報道

従軍慰安婦の問題で朝日新聞に重大な誤報があり、しかもそれが長く訂正されなかった結果、日本の国際的な立場を著しく困難にしたことが指摘されている。最近になり、社長が辞任し、又、第三者委員会の開催などが行われている。しかし、この朝日新聞による誤報のあまりに重大な影響を巡る議論はいまだおさまらず、改めて朝日新聞に対する訴訟などさまざまな形で朝日新聞批判が続いている。これら朝日新聞にたいする批判は、要するに、朝日新聞の報道がいかに「国益」を損ねたかと言うところにある。

ところが、まさにジャーナリストあがりで、最近急速にその発言力が注目されている評論家池上彰氏が、このような一斉に沸き起こった朝日新聞にたいするバッシングとでもいうべき状況に対して(多少意外にもと言う感じであるが)疑問を呈する発言をしている。このように、「国益」と言う観点から一斉に報道機関をバッシングするというような現象は、戦前、新聞が一斉に「国益報道」に走った重大な過ちを再び繰り返すこととつながるのではないか。報道・新聞は「国益」のためなどと言う事は考えず、むしろ事実・真実を淡々と正確に報道することを心がけるべきであり、それこそ報道の使命であるーーという趣旨のようである。

この池上氏発言には、なるほどジャーナリズムの経験豊かな氏の慧眼を感じるが、一方、この議論には多少混乱があり整理を要すると考える。

先ず、報道は事実を淡々と正確に伝えることを本務とすべしと言う点については、なるほど一見尤もらしいが、実は、報道が事実を淡々と伝えると言う事はきわめて難しい、むしろ不可能であると認識することが必要である。と書くと奇妙に聞こえるかもしれないが、実は、このことは、一般に社会心理学やあるいは新聞学の基本ともいうべきことであり、格別変わった意見ではない。以前、この稿のシリーズの中でも触れたことがあるが、要するに、事実或は事件に関する報道つまり記述は「群盲象をなでる」という域を超えることは非常にむつかしいということである。例えば、今、日本では「塩が足りない」という記事を書いて、例えば、倉庫にまばらに残っている塩の写真を掲載しても、実はこれは何ら記事にはならない。つまり、写真で紹介された倉庫には塩がないかもしれないが、実は隣の倉庫は満杯かもしれないのだ。これをさらに敷衍すれば、仮にすべての倉庫に塩がないことを実際に見て書いたのだと言って見ても、実は、当の塩の業者は塩の大量輸入の手配をすでにしているかもしれないし、報道ならばこの点もカバーしておかなければならない。さらに、ここまで取材をしたとしても、本当のところは、輸入の船の配船に支障があり、当面塩は届かないかもしれない。--とかとかで、要するに塩の供給の全貌を事実として客観的に報道することには非常な困難がある。

しかし、このような事実を伝えるような報道であれば、今やインターネットなど情報ネットワークの著しい発達に伴って急速にその全貌を知る機会が増えているのではないかと言われるかもしれないが、実は、このようないわば程度問題の前に、基本的、理論的な困難があることを承知しておくほうがよい。この点は例えば、カール・ポパーの議論の中でも出てくる。教室の学生に、一斉に紙と鉛筆を渡し「見たままを客観的・公平にそのまま記述せよ」と言う課題を出すと、必ず学生の中から手が挙るそうである。つまり、「先生、これは鉛筆の長さについてですか、書きよさですか、あるいは紙の質の事ですか?」というような質問が出る。つまり、人は何かを書こうとするときは、何か書くための「視点」を必要とする。つまり、客観的・公平な観察と言うものはあり得ない。逆に、ある事実について、その視点、見方を与えられると一つしかないはずの事実が今度は言われたように見えてくる(一筆書き或は影絵のようなもので、これはウサギであると言われればウサギに見え、口の長いペリカンだと言われればそのように見えるーー逆にこれはウサギだといわれてしまうとペリカンを視認することは実は非常にむつかしいーと言うような事は確かに経験する)。つまり、上記塩の不足についても、記者が、先ず塩の不足について書こうと「決意する」ことが必要である。そして取材が始まる、とすればこれは循環論法である。このように事実・事件をありのままに淡々と書くと言う事は実は非常にむつかしいのだ。

実は、筆者には、この事実の報道と言うことについて奇妙な経験がある。はるか昔の事であるが、三島由紀夫が自衛隊の市ヶ谷駐屯地において割腹自殺を遂げるという事件があった。この驚愕的な事件について、当時一斉に様々な報道がなされたことは当然であるが、筆者はこの時、この事件に非常に関心を刺激され、当時この事件に関する手に入る限り、目につく限りの報道、論評、論文をかき集めせっせと読んだ。当時すでに渡辺昇一氏が評論家としてこの事件について鋭い論評を書いていたのを記憶するが、これらの報道の中で、多少奇妙なことに遭遇したのである。つまり、報道によると、三島はヤッとばかりに刀を腹に刺した、その潔さを報じる記事(いわゆる逡巡創はなかった)があると同時に、ある記事では三島の割腹はそれほど思い切ったものではなかったという記事も見られ、そのうち、ついに、三島は実は全く腹は切らなかったという記事まで現れて、事が事だけに、まさに唖然とした記憶がある。以来、報道と言うものについて考えるとき、いつもこの経験を思い出す。

これは、個人的な経験であるが、実は、上記池上氏自身、最近のある報道に関して興味深い論評をしている。先日、皇太子が誕生日を迎えられ、記者会見に臨んだことは既に各紙で報道されているが、池上氏は、この皇太子誕生日発言の各紙の報道について次のような分析を載せている。朝日新聞2月27日付けの「新聞ななめ読み」のコラムである。少し長くなるが、(勝手に多少縮小して)以下に引用してみるとーー

= 2月23日は皇太子さまの誕生日。それに向けて20日に東宮御所で記者会見が開かれ、その内容が新聞各社の23日付朝刊に掲載されました。朝日新聞を読んでみましょう。戦後70年を迎えたことについて皇太子さまは、「戦争の記憶が薄れようとしている」との認識を示して、「謙虚に過去を振り返るとともに、戦争を体験した世代から、悲惨な体験や日本がたどった歴史が正しく伝えれれていくことが大切」と指摘されたそうです。----(ところで)同じ記者会見を毎日新聞の記事で読んでみましょう。こちらは戦後70年を迎えたことについて、「我が国は戦争の惨禍を経て、戦後、日本国憲法を基礎として築き上げられ、平和と繁栄を享受しています」と述べられたそうです。=

と指摘し、毎日新聞の記事では皇太子が「憲法」に言及されているところに朝日新聞との違いがあるとしている。そして、現下、憲法解釈の変更あるいは憲法そのものの改正などが政治的な議論の場に上がっていることを考えると、皇太子が慎重ながらも憲法に言及したことは発言の重要なポイントであり、「--こんな大事な発言を記事に書かない朝日新聞の判断は、果たしてどんなものなのでしょうか。ーー」と書いている。続けて、「--他の新聞はどうか。読売新聞にも日本経済新聞にも産経新聞にも、この部分の発言は出ていません。毎日新聞の記者のニュース判断が光ります。-」と指摘し、さらに、発言の他の点にも触れながら各紙の報道を比較している。そして、これらの記事の違いに触れながら、「--記者やデスクの問題意識の希薄さが気になります。」--と結んでいる(なおこの池上氏コラムの表題は、「憲法への言及、なぜ伝えぬ」となっている)。

これは興味深い記事だった。勿論、皇太子の会見・発言という事実、そしてその述べられた言葉も一つである。しかし、これを報道するとなると、やはり「ありのままに淡々に」と言うわけにはいかないのだ、という事がいみじくもよくわかる(なお、朝日はこの池上氏のコラムを受けて、その後補足記事を出している。それによると憲法に関する皇太子発言は朝日デジタル版では書いていること、また、いずれにせよ紙面の都合もあり新聞ではこの部分は省いたものであると説明している)。

以上は皇太子の発言内容という事実関係にかんする齟齬であるが、これが同じ事実でも「意見と言う事実」の報道となるともっとはっきりしてくる。例えば、先般、秘密保護法が改定されたことが大きな話題となった。この時、朝日新聞はこの改定に強く反対する立場から様々な記事を書くとともに、いわゆる識者を取材し、「改定に異議あり!」というコラムのシリーズを掲載した。連日、この改定に反対する識者の意見が名前入りで紹介され、なるほど参考になったが、これには多少奇妙な気がした。つまり、読者としては「異議なし」の意見も聞きたいし、異議ありのシリーズがあるならば「異議なし!」と言うシリーズも掲載してもらいたい。しかし、コラムは「異議あり!」だけである。ということは、朝日としては、当然異議なしの論者もいることは十分承知しているはずであるが、これらはそもそも取材しない或は取材しても掲載しないと決めたのだ。つまり、事実の取材と言ってもその前に「異議なし」は取材しない、掲載しないという「決意」が先ずあったのだ。

このように整理してみると、新聞の報道と言うものは、ことごとく、様々な事件の報道も含めて、すべてある意見・見方の報道なのであると理解することが正しい。つまり、より強調すると、新聞記事と言うのはすべて「費用自己負担の意見広告」と同じものだと考えることも出来る。逆にこのように考えてしまえば、仮に、新聞が一斉に同じ「意見広告」を出すと言うような事態が起こるとすれば異常なことなのだと読者たるこちらも警戒心を持つことが出来よう。

以上のようなことについては、トクビルが「アメリカのデモクラシィー」(第2部 岩波文庫)で興味あることを指摘している。「アメリカのデモクラシー」は、アメリカのデモクラシーがいかなるものよって支えられかつ機能しているのかを探った言わば一緒のルポルタージュのようなものと理解することが出来るが、この中で、トクビルはアメリカの新聞・マスコミが、町でおこった殺人や火事などの「事件」について報道している(かなりの紙面を割いている)ことを指摘しかつこれに驚きを表明している。逆いえば、フランス人であるトクビルの経験・理解では、報道というものは、本来、筆者の意見・論点・議論を紹介するものであって「事件の報道」などと言う考え方になじんでいなかったようである。考えてみると、現代において報道やマスコミと言われるものは、ヨーロッパで、言わば貴族やアカデミアのメンバーの書簡やエッセイーの発表と言う形で始まったというのがもともとの姿だったようだ。その伝統がアメリカに流れるとともに、事件の報道つまり事実を伝えるということがマスコミの機能に加わり発展していったという歴史をたどったとみることが正しいようである。

要するに、以上のように考えると、報道とは「意見の表明」であるということが報道の原点であるとを改めて認識することが必要だ。

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