「と私は思う」(その2)

前回書いた道徳科目に関する「と私は思う」を少し敷衍しておきたい。その稿の中で取り上げている「教育勅語」についてである。実は、この「教育勅語」については、草案の作成当時から様々な議論があり、その制定・公布は大変な難事業であったらしい。この間の事情については、前にも書いた「明治の表象空間}松浦壽輝(新潮社)で詳しく取り上げられているので、これを借用して少し補足しておきたい。

松浦「明治の表象空間」によると、明治23年の「教育勅語」は、実質的に井上毅が中心となり起草されたものとなっているが、実はこの井上毅案に至るまでに既に相当な紆余曲折があったようである。まず、中村正直による草案が検討されたが、結局この案は没となり作業は改めて井上毅に引き継がれることとなった。中村草案の何が問題であったかというと、中村案には「天」という概念が中心理念として掲げられていたことである。勿論、当時の歴史的な状況からして、国民(当時は臣民という言葉が使われているが)の道徳規範として忠義、或は父と子の関係と言うような儒教的な価値観が基本となることは当然と思われるが、中村はこのような儒教的な価値観の根拠として「天」の概念を使ったことが問題とされたらしい。もともと中村は「敬天愛人説」と言う本を、明治元年に発表しているそうで、その思想の中心に「敬天」があることは知られていた。そして、問題の「徳教に関する布告」つまり後のその後の教育勅語の検討に当たり、この基本思想の「敬天」が、儒教的な価値観と結びつけられ、その説くところの基本は以下のような形となっていたそうである。

つまり、「父は子の天なり、君は臣の天なり、君に対して敬愛の誠を致すこれを忠と言ひ、父に対して敬愛の誠を致す、これを孝と言ひーー」と言うわけである。しかし、仮に、このような案が出されるとなると、当然ながら次のような疑問が出て来る。

第一に、仮に君或は父が天であるがゆえに臣は忠或は孝でなければならないと言うならば、真に忠(或は孝)の誠を尽くす対象は、実は君や父ではなくその実質において「天」ではないのか。

第二に、これを少し一般化すれば、道徳の真のつまり根本的な規範は天にあることになるわけであるから、君或は父であっても「天」に従うべきことになる。しかし、これは天皇の立場を考えてみると直ちにわかるように必ずしも自明とは言えない。

そこで根本的に、「天」とは一体何かが問題になってくるが、中村案はここで「神」を導入している。そして、このような至上の概念、道徳規範の最終的な根拠となる「神」の導入は、当然というべきか、明治政府の受け入れるところではなかった。

中村がクリスチャンであったことから、上記松浦は、この「天=神」にキリスト教的含意があることは明らかであるとしており、当時(明治)も、この点同じような懸念が持たれたのではないかと思われる。

そこで、この中村案は没にするとして、それでは、一体予想される新しい「徳教に関する箋言・布告」はいかなる理念に基づくべきか?またその理念は天皇制といかなる関係に立つべきか?が改めて問題となってくるわけである。以上のような議論を背景にして、制定作業を引き継ぐことを要請された井上毅は、直ちに、これには「非常の困難」を覚えるとして、作業開始の最初の文章で7項目にわたる論点を指摘したそうである。上記松浦書で、この井上のメモのが紹介されているので、その7つの論点を以下に紹介すると(便宜、略している)、

1.この勅語となる文章は普通の政事上の文章と異なるべし。何故なら、今日之立憲政体主義に従えば、君主は臣民之良心之自由に干渉せずーー

2.この勅語では敬天、尊神之語を避けざるべからず。何故なら、(このような語が入れば)忽ち宗旨上の争端を引き起こすこととなるーー

3.この勅語には幽遠深微なる哲学上の理論を避けざるべからずーーなぜなら一つの理論には必ず哲学上の反論がありうべきーー

4.この勅語には政事上の臭味を避けざるべからずーーつまり、この勅語は時の政事家の勧告となってはならないーー

5.漢字の口吻と洋風の気習があってはならない。

6.なにか否定的に愚をさげすんだり、悪を諌めるようなことを書いてはならない。これは勅語であるから、君主の訓戒は往々として大海の水のごとくなるべくーー

7.世にあらゆる各派の宗旨の一つを喜ばせるような語気あるべからず。

と言う次第である。当時の超有能官僚と言われた井上にしてこの嘆き、と感じるが、さすがに井上は結局これらの問題を迂回しつつ、見事「教育勅語」の制定に到達している。

このような経緯を経て制定・公布された「教育勅語」であるが、改めてこれを読み直してみると、要するに何を言っているのかさっぱりわからないと言う事になる。再び松浦によると、この徳目(当時日常的に言われていた「孟子」由来の五倫の徳とその脚注のような項目を合わせて12の徳目が列挙されている)の何と平凡、何と無個性的であることか!ということになり、実は、このことが、明治・大正・昭和と教育勅語が生き抜くこととなった所以であったことが指摘されている。しかも、この教育勅語は何らの意味での命令ではなく、実に用意周到にも、その結語は、

ーー朕なんじ臣民とともにけんけん服膺して ーとあるように、君主たる天皇も共に努力するものとしていることが、実は読者たる臣民の奇妙な共感を呼ぶ。のみならず、まさに最後の締めくくりにおいてーーみなその徳を一にせんことを請い願う。ーとされ、要するに天皇の命令の形を取らず要請にとどめている。上記松浦の「明治の表象空間」は、このような教育勅語の文章の特徴、つまりその「表象空間」が、実は、「教育勅語」に対する反論をむつかしくしたばかりでなく、むしろ、天皇と国民との不思議な一体感を生み出し、(仮に教育勅語が命令ならばこれに対する反論は、君主への反抗となる)、終戦まで長く生き延びてきた所以となったとしている。

ついでながら、筆者としては、この教育勅語は、実は、ーー億兆心を一にしてその美をなせるーーと書かれていることに注目する。つまり、この勅語の根源のところは、ここに掲げられているような徳目を守ることが「美しい」ことであるとされいるわけであり、基本理念を云々するよりも、そのつまり臣民の美意識に訴える形となっていることが重要なポイントであると指摘したい。つまり、人間の美意識如何と言う事になれば、必ずしも理念には左右される必要はないだろう。と同時に、ー-此れわが国体の精華にして、教育の淵源亦実に此処に存す。-とあるように、これら徳目の根拠に「国体」という非常にあいまいで分かりにくい概念(でありながら万邦無比の国体と言われるように奇妙に日本人の意識をくすぐる)を取り入れたところが、この勅語の実に巧妙な構成振りを示しており、また、長く教育の現場で引き継がれてきた理由があると考える(なお、この「国体」と言う事になると、戦後の新憲法下においても日本の「国体」に変化はないという立場が、新憲法制定の際の政府側の考え、つまり当時の憲法担当大臣金森の回答、であったそうである。この点については、ジョン・ダウアー「敗北を抱きしめて」が参考になる)。

さて、以上で、筆者は一体何を言いたいのか。一つには、当時恐るべき有能官僚と言われた井上毅の悪戦苦闘ぶりを今一度よく考えてみるべきだ。そして、これをよくよく考えてみると、それではこのような悪戦苦闘をしないで済む教科、つまり、学校において提供される教育とは何を意味しているのかあらためて考えさせられる。今、手元に、たまたまある大学の入学試験要領があるが、入試科目として数Ⅰ、数Ⅱ(さらに数Ⅲもある)、英語、国語(古文を含む)日本史、世界史、理科は物理、化学さらに生物ーーと続く。これらが、高校から大学へと続く学校教育の中身だが、これらをどんなに習熟してみても、つまり、現代風に言えば、これらでどんなに偏差値を上げてみても、それは決して「立派な人間」になることを意味しない。このことはよく胸に手を当てて考えてみる価値がある。

なお、参考のため、勅語の原文を、以下にコピーしておく。

教育勅語

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此
レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ
兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ
修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開
キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無
窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々
服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日
御名御璽

 

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