大学の教育

安倍政権下の大きな課題の一つとして教育改革、特に、大学の改革についての議論が盛んである。秋入学と言う案を巡って騒動となっていた東大も今年から4学期制になったようだ。今年の、入学式のニュースで知った。4学期制になれば、海外の大学への短期留学や単位交換なども容易になるだろう。しかし、以前調べたところによると、日本の国立大学では一定期間以上大学を離れるときは(一定期間の病欠は認めるが)休学は認められず退学となる事になっていたはずであるから(文科省からの通達がある)、在籍のまま短期に留学するようなこともできるような改正も併せて行われたのだろう。確かに、海外に留学しても、在籍のままできるならば(単位交換が可能なら進級も変わらない)卒業時には、うまく、あの「一斉新卒採用の群れ」の中に紛れ込むことが出来るだろう。このように、すこしづつ日本の大学も改革が進んでいるようであるが、どうしてもここで一つ基本的な問題と言うか疑問がある。それは、学期制がどうなるかと言うような類の問題ではなくて、一体、大学では何を学ぶのかと言う疑問である。

このような疑問が抜けないのは、端的に言って、大学に行っていても、実際問題としてほとんどと言うか、まったくと言っていいくらい「勉強をする必要がない」という現実である。少し昔になるが、筆者の経験でも、入学式には会ったことがあるが、その後まったく顔を見たこともない学生に卒業式で会ったと言う例が少なからずある(卒業はしたのだから試験には出ていたのだろうが)。これは、必ずしも例外的というようなものでもなく、それでも問題なく卒業は出来るーと言いうのが日本の大学の現実である。但し、ここで議論はややこしくなるわけであるが、これは必ずしも悪い(つまり怠けていた)と言う意味ばかりではない。大学生の間は登山に熱中していたという人もいる。ほとんど柔道で暮らした、と言う人もいるし、筆者の知人ではひたすらヨットに専念していたーそういう学生生活もある。一方、学生マージャンに専念している人も居たし、そもそも、当時、学生運動に入れ込んでいた人達(いずれも妙に年上の雰囲気であったが)も、いったい教室に出たことがあるのか疑問である。これは日経などの「私の履歴書」やいわゆる著名人の回想録などでもよく出てくる話である。東大の場合、試験の成績は優良可の3段階であるが、勿論可をとれば単位は取れ進級できるし、「可」(あるいはせいぜい良くらいで)で進んでいくなら実際ほとんど勉強らしいものをしなくても十分取れるし、進級し立派に卒業もできる。要するに大学では、ほとんど実際上勉強する必要がない。

この点、今でもあまり様子は変わらないようである。先日、ある建設関係の会社の管理職をしている人と話したことがあるが、なにか、インターンとか言って大学の4年生或は3年生がぞろぞろやってくる。そしてなにかボランチアまがいのことをやって帰っていくそうである。一体、何をしているのか。大学3年、4年と言えば一番勉学に忙しいころのはずだが、こんな建築業の下請けアルバイトのようなことをしていてどうするのかと思うそうである。そういえば、先日もテレビを見ていたら、このインターンとかで、大学の4年生という若い男女が、なにやらユニフォームを着てお盆をもってドリンクのサービスの練習をしている(嬉しそうにやっていた)。先日4月16日朝日新聞の「耕論」では、茂木健一郎氏が、ーー大学で教えていますが、就職シーズンとなると、学生が欠席するのが当たり前になっています。--と書いている。

最近の就活の様子を聞いてみると、企業としては、学生の大学の成績は一切見ないし、関心もないそうである。これには企業側に、一応の理屈があり、学生の成績は全く参考にならない。なぜなら、同じ優、良といっても大学により内容に差があり、また、教授によって(厳しい教授かそうでないか)差があり、要するに意味がないそうである。何しろ、以前このコラムでも取り上げたが、先般、たしか三菱系の銀行とある商社が、大学の成績も採用試験の参考にするという方針を発表したことが、「ニュース」となった(日経の記事となった)。要するに、(将来は研究者の道を進むと決めたような場合は別にして)就職すると決めたら、成績を上げるため勉強をするという必要がない。そういうインセンテイブが働かない。インセンテイブがない以上しないだろう。これは当然である。

この様な話となると、いつもアメリカの大学の話が出る。アメリカ留学の経験者の話を聞いたりすると、アメリカの学生生活は勉学と言う点において相当に厳しいらしい。これについては、あちこちでたくさん話があるので改めて書く必要もなかろう。アメリカの大学に留学して、毎日大変な読書課題を課せられて閉口する話はよく聞くが、確かにアメリカの大学を出た学生の読書力、その範囲には驚くことがある。先般、そのような経歴の人と話をしていた時、こちらが教授職時代に見つけ出し力を入れて読んだ本の話を(やや得意げに)していたら、実は、アメリカでは、その本は、既に学生時代の課題図書として読んでいると分かり驚き同時に感心したことがある。この様に、アメリカの大学の場合、なにか、卒業生の「品質保証をする」と言うような感覚がある。これは多分に、アメリカでは各大学が並立的に並び立ち競いあっているということと関係があるようだ。先日アメリカのビジネス・スクールで教授をしている人と話したことがあるが、その話でも、やはり学生のうちほぼ5%は必ず落第させるという一種の内規があるそうである。それでは優秀な生徒がそろっているときには問題ではないかと聞いてみると、やはりそういうときでも必ず一定の落第者を出すそうである。でないと、教授自身の教育の質が問われることになるとか。なるほど、先生も、いかに自分が厳しく質の高い、いわば試練の教育をしているか示さなければならないわけだ。

ところで、この「落第」と言う点で奇妙な経験がある。以前日本のビジネス・スクール(大学院)で教壇に立っていたことがある。ビジネス・スクールでは卒業の際、修士論文の提出を要求する。ところが、そのなかで、筆者の担当ではなかったが、どうも論文がうまくまとまっていないとかで、ついに落第した学生がいた。当の学生はさらに一年在学し再度修士論文の提出となった。この段階で、筆者が、論文審査員の副査の一人に指名された。副査と言うのは審査委員の一人であるが、別に主査がいて、この教授が最終的に合否を判定する。筆者としては、この時初めて当の学生の論文に接したわけであるが、読んでみると残念ながらどうもうまくまとまっていない。これはどうしても否定的な意見を出さざるを得ないという感じで、多少憂鬱な気分をかかえながら審査会に出席した。予想された通り審査の際の学生の応答もまとまらず、これは再度落第かと思った時、当の主査たる教授(いわゆるビジネス界から横すべりして入った筆者と異なり、その大学で長年教授歴があり、言わば生え抜き教授と言う立場の人であるが)が、突然、審査を締めくくるように発言したのである。--もうこのくらいでよい。さっさと卒業してください。--主査の決定だから、当の学生はそれで卒業していったが、こちらには、なにか割り切れない気持ちが残った。そこで、それとなく事務をしている課長の話などを聞いてみたりしたが、そのときの話では、落第して学生が引き続き在学となると、そのための机や図書館スペースの確保或はコンピューターの割り当てなど要するに事務的な手当が大変なのだという。なるほど、落第にはそのような予算的、実務的な限界と言うものがあるのだと感じた。が、それにしても今回の主査の対応は理解を超えていると思い、さらに機会をとらえて聞いてみると、落第にはそのような単純な事務処理の問題だけなく、もっと重大な問題があるのだという事情が分かってきた。文科省からの補助金問題である。つまり、仮に当の大学が張り切って続々と学生を落第をさせると言う事になると、どうなるのかーー、それを見た文科省は、この大学における、教授の質、能力に問題があるとみるばかりでなく、要するにきちんとした教育が行われる体制が出来ていないと判定し、結果、補助金が削減される恐れがあるのだ。当の大学は私立の有力校ではあったが、それでも補助金となると何十億と言う単位であり、いずれにせよ金が入らなくなる。これは「問題外」の大問題である。なるほど、さっさと卒業してくれというのもよくわかる(特に大学の運営にある程度関知しているような上記主査のような教授の立場で考えれば)。このような事情がわかると日本の大学の「落第問題」もよく見えてくる。例えば、最近の法科大学院の例が一つの典型である。法曹になる道として法科大学院が開設され、全国で一斉に法科大学院が開設されたが、どうも予定していたような合格者が出てこない(つまりは落第する)。そこで、一定の司法試験合格者がでないような法科大学院は文科省が閉鎖を命じることとなったという報道である。このとき奇妙な感じがした。つまり、合格者が出ないならいずれ学生も来なくなるだろうし、そのような学校は自然に淘汰されるはずだ。文科省がいちちい口を出す筋合いではないと思ったが、考えてみると、これは合格者が一定の割合に達しない場合は、文科省としては補助金を打ち切ると言っているのだ。これを要するに、日本の大学では、落第生を出すと言う事は、これは教授の能力不足、学校の教育力の不十分さを示すものとみられるわけだ。むしろ、学生の能力、努力不足はどうなのかと言いたいところであるが。つまり、これは学生性善説であり、学生同志を激しく競わせるという考えかたは欠如している。だから、補助金は打ち切られ(あるいは削減され)る。なるほど、これでは、例の主査がーーさっさと卒業してくれと言うのも分かる。

さて、要するに、日本では大学に入れば、勉強する必要は無い。登山もいいし、なにか、学生運動のようなことをしていてもよい。ボランテイアもいいだろう。麻雀戦にうつつを抜かしているのはなにか問題のような気がするが、これも別に問題はない。つまり、日本の大学でなにもせっせと勉強しなくても、実は、社会人となって立派にやっている人はたくさんいる。上に書いたように、この議論のややこしいところはここである。日経で有名な「私の履歴書」を見るまでもなく、大学で学んだことが、その後のビジネス、仕事あるいは、人生で導きの星となり、力となったという例はほとんど皆無である。

これを逆に書いてみると、例えば、あなたが日本の大学を出たとして、大学で何を学んだか。もう少し具体的に、敢えて、例えば、あなたが東大法学部を卒業しているとして、東大法学部で何を学んだといえるか。一度、書き出してみるとよい。自分は大学で何を学ぶことが期待されていて、果たして自分はそれに答えたか?このように端的、具体的に書くと議論を呼ぶことだろうが、確かに、この問い、つまり「大学では何を学ぶのか?あるいは何を学ぶことが期待されているのか?もっと端的に大学教育とはなになのか?」というテーマは、十分議論するに値する。--この稿続く。

 

 

 

 

 

 

カテゴリー: 未分類   パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です