入社式

 今年も例年のごとくであるが、春ともなると入社式の様子が報道される。そして、毎年同じことを思うのだが、つくづくこの入社式なるものは残酷な場面だ。なにが残酷なのか?この入社式こそ、新卒一斉採用の象徴のようなものであるからだ。この入社式に写っている若い人たちは、要するに、めでたく毎年の「一斉採用の群れ」に入った人たちを示している。しかし、現実はどうか。この裏には、この一斉採用に入れなかった人たちがいるのだ。見ていると、このような採用式では大体、社長が出てきて何か式辞というか訓示をするようだ。その様子も報道される。なるほど、この入社式に並んでいる人たちは、こうして社長を見ることが出来、その声を聴くことができる。なにか印象に残るような言葉或はちょっとした表情や動作などがあれば、多分新入社員の一生の思い出となり、場合によっては励みになるだろう。しかし、これを逆に言えば、この新入社員の式に入れなかった社員(つまりは、中途採用者)はおそらく、一生、社長の顔を見ることはあるまい。入社式は一見希望に満ちた会社の慶事のように見えるが、実はこうして社員の差別をもたらしていく一つの象徴だ。

一斉採用 + 年功序列 + 終身雇用をどう見るか。筆者は、以前ビジネス・スクールで教鞭をとっていたが、当然ながらこの問題(つまり雇用形態)は折に触れ話題になる。そして、実際は、年功序列を支持する人は実に多い。何といってもやはり年功序列が一番。これは、多分日本でビジネスにある人(今最も活躍している人)たちのほとんどが感じていることに違いない(少なくとも本音のところで)。ビジネス・スクールのいわばアカデミックな流れの中でも、これを支持する有力な学派がある。この学派によれば、組織が円滑に運用され成果を出すためには、いわゆるマニュアル化された知識のみならず、先輩と後輩、あるいは年長者と新入生と言うような関係の中から生まれる(つまり見よう見まねで学ばれる)「暗黙的な知」が重要な役割を果たす。基本的に、このような議論は、日本が得意とする製造業に当てはまるが、必ずしも製造業に限らず、この年功序列と終身雇用と言う基本的な組織原理、システムは日本のビジネス全体として根強い力を持っている。そう簡単に変わるものではない。先日(おそらく日本の事情を知悉しているはずの)エズラ・ボーゲルが、日経5月22日の経済教室に一文を寄せている(「国家戦略の立案向上を」)ーー「日本の経営者は会社の長期的な未来を大切にする。日本企業が社員の献身に期待できるのはこのためだ。驚くべきことに、バブル崩壊後の今日でも79年と変わらず多くの日本企業が終身雇用を維持している。ーーーつまりエズラ・ボーゲルでも驚いているのだ。 。

一方、アメリカなどのいわゆる欧米型ではどうか。これは当然のことながら、基本的にすべて中途採用である。当然ながら、と言うわけは、職員は、必要な時に、必要な場所に、そして必要な能力 が採用されるべきであるというのが原則であり、これ以外にはどう考えてもあり得ない。少なくともビジネス・スクールに来ているような社会の中堅をなすビジネスパーソンにとっては、これは自明のことであり、必要でもない時に(つまり春になると一斉に)、必要でもない場所に(現場を分かっているはずもない人事部が配置してくる)、必要でもない能力を(つまり入るときは白紙がよい)採用する、という仕組みは、どう考えて見ても理解を超える。こうして、日本の会社は(高度成長の波に乗れば乗るほど)なにか謎めいてくる。実は上記ビジネス・スクールの知識学派の始まりとなった有名な本があるが、これを読むと、先ず西洋の「知の歴史(社会思想や哲学の流れ)」から説き起こしている。そしてこのような西洋の知の歴史の延長として、実はこれまでカバーされていないような「知の在り方」を提言しこれを「暗黙知」となずけている。つまり、この本の(学派の)革新的なところは、日本の組織原理を西洋の知の歴史のなかで初めて連続的に位置づけたところにある。なるほどーこれで初めて日本の謎めいたところが議論の対象となりうることが示されたのだ。ハーバードビジネススクールでも、1980年代の後半ごろから、日本型経営が急速に注目を浴びるようになったことにはこのような背景がある。

それでは、この雇用形態が、その後世界の中で一定の理解を得て広がっていったかと言うとそうではない。最近、アメリカで国際機関に勤務している人の話を聞いたことがあるが、国際機関では、ますます期間限定雇用が中心となっており、かつてのレギュラー・ポジション(こうなるといわゆる定年まで雇用が保障される)はほとんどなくなってきているようだ。国際機関の採用でも、きわめて限定的ではあるが、いわゆる学卒一斉採用と似た形式があるが(これは、基本的に白紙の学卒を採用し、内部で訓練・昇任させていくと言うプログラム)、聞いてみると、これもほとんど消滅しつつあるようだ。つまり、世界では、必要な時に必要な場所にそして必要な能力を(つまり中途かつ期間限定採用)が依然として主流であるというか益々拡大している(つまり、ビジネス・スクールで話題となるような世界では、職の保障、安定と言う考え方は益々希薄になりつつあり雇用はますます弾力的・機動的になってきつつある)。

世界の雇用が、こうしてますます機動性を益し、流動性を高めているときに日本はどうするか。これに対応しようとした試みが小泉政権下の宮内(オリックス)改革と言えよう。ここで久しぶりに派遣法が改正され製造業にも派遣が始まった。こうして日本の雇用は機動性を益す方向へ一歩を踏み出したと言えるが、一方で、「入社式」は変わらないわけであるから、これはまさに正規社員と非正規社員と言うもともと日本の雇用を特徴つけていた残酷さが一層鮮明となる結果をもたらした。さらに、今回、労働者派遣法が改正された。これが労働者側にとって改善か改悪かは激しい論争となったことは周知のとおりである。

これらについては様々な論評が発表されているので改めて書くまでもないが、それらの議論の中では企業のいわゆる解雇権をめぐる朝日新聞の耕論の欄(2013・4・24)が非常に参考になった。この「耕論」は、このような重要な論題について賛否両論を紹介していて非常に参考になる。ここでも賛成論者(人事コンサルタント)は、今回の改正が日本の旧弊ともいうべき終身雇用を崩し、チャンスを平等にする機会だと述べと述べている。これは、上に書いたような世界の趨勢とより合理的な考え方からして当然の立場と言える。一方、反対派(NPO代表)の議論は非常に興味深い。簡単に引用するとー
  成長産業に労働力を移す。当然のことです。そんなことは別に雇用規制を緩和しなくてもいくらでもできます。日本の、特に 大企業は、不採算部門の社員を育成しなおして、成長分野に充当してきた。技術者が営業に異動して伝説の営業マンになったな んていう話も普通にありますよ。社内人材をとても効率的に活用するシステムが機能していたわけです。--
これを読んでいて、筆者の参加したハーバードビジネススクールでのあるケース・スタディー(授業)を思い出す。これは日本のある中堅企業のケースであるが、その中で、一人の技術者が卓抜したアイデアと実行力の持ち主で、一つの技術的な革新を達成すると同時にその工場全体のシステムの変革に成功し、工場全体の生産力を飛躍的に高めたというストーリーが出てくる。そしてこのケースの議論がほぼ終わった時、教授が一つの質問をした。「ところで、この技術者の次の異動先はどこだったと思うか?」当然ながら、研修生・学生のあちこちから手が挙り、指名されると、-工場全体の管理者的なポスト、つまり工場長に抜擢された、いや、むしろ、本社に異動し、より幅の広い企画部門に栄転したーーなどという回答が出たが、これらの議論がおさまったところを見計らって、教授は「実際は営業部門に回った」と述べたーーその時のクラス全体、学生の中からオーと言うような何とも言えない驚きの声が発せられたのは、忘れられない記憶である。勿論、学生は世界各国から参加した中堅・上級幹部であるが、この授業は多分印象に残っただろうと想像する。このように日本の一斉採用、長期雇用というシステムには、上に述べたような不思議さの中に、実は意外ともいうべき強靭さと機動性、適応力が隠されているのだ。この辺を見誤ると日本の会社あるいは社会・経済と言うものの力を読み間違えることになる。

 つまり、日本では、結局のところ、この一斉採用、終身雇用と言うシステムが、ビジネス・スクールではうまく説明が出来ないままに実は意外に強いのだ。そして、これは今後も続くだろう。逆にいうと日本の組織原理は、「中途採用」と言うシステムとなにか相性が悪い。知られている日経の「私の履歴書」では、日本の代表的な経営者の経験が出てくるが、このなかで、言わば中途採用で採用した職員に散々苦杯をなめさせられる話がたびたび出てきて興味深い。その一番の典型はオムロン(立石会長)であろう。中途採用者に散々裏切られた話がでていて、わが社は、今後中途採用は一切しない、新卒採用に限る、これは社是だーという話が出てくる。最近話題を呼んだニトリでも、中途採用で引き抜いてきたある幹部職員に散々悩まされる(秘蔵していた「ナポレオン」まで飲まれてしまう)話が出てくる。これは、一つには日本では、転職などに当たり、きちんとした人がその人の履歴を説明・証明するような推薦状を書く、そしてそのような推薦状が信頼性を持つと言ういわば社会インフラが出来上がっていないのだと言う事を強く感じるが、この辺も簡単には変わらない。

要するに、日本では、今後とも、ビジネススクールでの困惑とエズラボーゲルの驚きにもかかわらず、一斉採用、長期雇用は続くだろう。そしてだからと言って日本の企業の活力が衰えるわけでもない。とすれば、これはこれでよいではないかーーと言う議論は十分成り立つと思う。しかし、ここで忘れてはならないのは、こうして「一斉採用の群れ」に入り損ねた人たちである。筆者が強く感じるのは、これら非正規に回ったあるいは回らざるを得なかった人たちは、決して不届き者ではないと言う事だ。むしろ非常に優秀で意欲的な若い人たちがいる。その典型が日本からの海外留学生である。たとえば、日本の高校を優秀な成績で卒業し意欲に燃えアメリカの大学に留学してきたような人たち。勿論、学生の間は学生ビザが出るが、卒業したとたんにビザはなくなり、そして就労は出来ない。アメリカでは簡単に就労ビザは取れない。そもそも、アメリカでも高等教育を受けて職がない若者の問題は深刻である。かといって日本では既に一斉採用は終わっている。これはまさに悲惨である。なんとか博士号までとがんばれば、ますます日本には帰れない年齢となる(日本でも、まず職はない)。この海外留学生の話は、筆者の経験からくるやや我田引水の話かもしれないが、そもそも、一斉採用では、偶々、就職氷河期に遭遇し、めぐりあわせでそうなっただけの若い人が二度と正規の職に戻れず、結局、宇宙をさまよう衛星のごとき一生を送らざるを得ないと言うのはまさに残酷ではないか。ついでながら、上記規制改革の宮内(オリックス)氏が、やはり「私の履歴書」で海外留学の事を書いている。宮内氏は、なにか大学を卒業すると2年ほどみずからすすんで留学したらしい。アメリカでさんざん苦労して勉学し日本に帰ってきて職を探すと、なんと、会社からはこの2年間は全く白紙とする、つまり、2年遅れで会社に入ったことと同じ扱いとすると言われて、非常に憤慨するところが出てくる。結局、散々交渉してなんとか半年分は認めさせることに成功し、1年半遅れで会社に入ったこととなったそうである。宮内氏の年代からしてこれはかなり以前の事と思うが、決して過去の話ではない。いまでもこのような事情は全く変わっていない。

とすれば、要するに、張り切って入社式を終え、意欲を持って仕事に取組み、会社はそれで結構だとしても、その繁栄は、実は隠された犠牲者の上に成り立っているのではないか。そして犠牲者を生みながら成り立っているような繁栄ならば、それはどうしても納得しかねる。今年もテレビに映る入社式を見ながら以上のようなことを考えた。

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