小池顧問団

小池都政が注目を集めている。自民党主流派からの選出と言うわけではなく、小池派ともいえる立場を明らかにしていることによるのだろう。意識してリダーシップの発揮に努めているようだ。そのなかでも、一つ興味深いことは、なにか都政の主要な課題・問題となるとしきりと有識者による顧問団を指名することである。先日もなにか子供の育児に関する有識者会議の結論が出たとかで、有識者の委員長がにこやかに(やや嬉しそうに)小池知事に報告書を手渡す場面がテレビで報道されていた。小池都政はこのようないわゆる有識者委員会を多用するようだ。いわば、小池知事とその顧問団が都政を動かしていくという姿が見て取れる。

このような顧問団の活用は珍しいことではなく、実際、国の政策でも様々な「有識者会議」あるいは「懇談会」などが使われており、かつて官僚の一員であった筆者も、国の政策マターについて専門家による懇談会を開催した経験もあり思い出もある。小池都政はこのような手法を踏襲しているだけだと言う事であろうが、これがどうやら小池知事の政治手法として今後も多用されていくというと言う事になると、改めて一つの疑問が浮上してくる。つまり、そのように専門家・有識者の意見が直接トップにむすびついていくようなことになれば、一体、都の副知事や局長職は何をするのかーーこれら幹部職員と知事との関係はどうなるのだろうか。つまり、都と言う官僚システムの幹部職員こそ、これまでの長い経験と知見、更に高い管理能力からして、知事に政策提言する最大かつ最強の「顧問団」ではないのか。いわゆる有識者会合がはびこるにつれ、一体彼ら(都の最高幹部職員)は何をする(あるいは何をすべきか)、という疑問が湧く。

より一般的に、そもそも役人・官僚(勿論、ここでは政策の策定にかかわりあうような上級官僚と言う事になるが)の果たすべき役割、と、知事あるいは大臣など組織のトップとの関係はいかなるものなのか、あるいはいかなるものであるべきだろうか?このような問題意識は、必ずしも都政に限ったことではなく、もっと一般化できる。つまり、そもそも官僚組織においてその上部官僚と組織のトップたる大臣・長官・知事との関係はいかなるものであるべきかという問題である。つまり、このような官僚組織の外にあるいわゆる有識者・専門家が組織トップの顧問団としての機能を果たした場合、それでは、その決定の責任は誰が取るのかという問題にもなる。これに対して、その答えは明白だ、「顧問」は単に意見を述べるだけであり、その決定に関する責任はすべて知事にある(有識者・顧問団にはない)、と答えるならば、これと全く同じ議論で副知事、以下上級官僚(顧問団と同じく意見を述べたに過ぎない)にはなんら責任はないと言わなければならない。勿論、上級官僚は、それでしかるべき給与を受けているのだから顧問団とは違う責任があるはずだという議論もあるかもしれないが、そそれは、その進言がはたして「良心的ないしは誠実なものであったか」どうレベルの問題であって「責任」と言う問題にはならないはずだ。逆に言えば、例えば都の副知事、市場長はなぜ、あるいは、何の責任を問われるのか?そもそも政治的トップではない官僚組織の長または上級幹部の取るべき責任はあるのか?と言う事になる。

都知事にしきりと意見具申している専門家・有識者・顧問団には一切責任はないと言うならば、同じく知事に進言する上部官僚も責任はないと言えるだろし、仮に上部官僚には責任があるというなら、この両者の違いはどこから来るのか、どんな責任なのかという疑問が湧く。

以上のような問題意識を改めて整理してみると、結局、行政学などで出てくる組織の「スポイル・システム」の考え方が浮かんでくる。スポイル・システムの考え方は、仮に政治的な変動があれば(大統領交代などの政変があれば)その組織のトップのみならず上部官僚が、一斉に変更されるというシステムである。アメリカの官僚組織はこのようなスポイル・システムであり、まさに今ワシントンは元の政権下で上級官僚を務めた職員の大移動が始まっている(筆者もワシントン勤務時代、クリントン政権の発足による上級職員の大移動を見た。大体3000人くらいと言われるが、異動が落ち着くまでには半年はかかる。もっと、アメリカでも、このスポイル=猟官システムは一定の職までにとどめられているそうであるが)。そういえば、アメリカの政治の中では、この小池知事あるいは筆者も経験したいわゆる「有識者顧問団」と言うような機能・組織・団体が、あったのだろうか。思い出してみても聞いたことがない。勿論、アメリカでも、業界団体はあるし、また、特定の政策事項については、ロビー団がありしきりに活躍し大統領あるいは議会議員に働き掛けるを行う。しかし、、これは、はっきりと見返りとして報酬をもらう活動家であり、日本のいわゆる有識者とは全く違う。一方、スポイル・システムである限り、アメリカの上級官僚は日本の顧問団と同じく政策の進言者であるとともに、日本の顧問団とは全く異なり政権の変動と共に(責任を取る形で)辞めていく。

以上は、要するに行政組織がなにかある政策的な決定を行う場合にだれがその責任を取るのか、そのシステムはどうなっているのかと言う基本的な疑問である。国の問題に振り替えると、しばらく前の官僚バッシングの結果、各省庁の重要な(つまりは政治的な)決定システムが大幅に改定され、かつて(筆者が経験してきたような)システムと今は大きく変わっている。先日、所要があってたまたま財務省を訪れたが、かつて慣れ親しんだ建物の2階にある幹部席の様子は全く変わっている。当然ながら、かつては事務次官が最も重要な幹部であり(政務次官は当然隣にいたが)、大臣室の隣に位置していた。しかし、そのようなイメージで久しぶりに財務省を訪れると全く様子が変わっている。何しろ今や大臣の次には副大臣(2人)があり、政務の次官席(これも2人いる)が並んでおり、かつてなにか威厳を構えていた事務次官室は一体どこにあるのかとうろうろする始末であった(いまや廊下の端の方にある。)これで、思い出すのだが、先日ちょっとしたパーテイで、某省幹部の一人である局長に会って立ち話をした。その時、その局長がしきりと嘆いているというか奇妙に困惑したような話をする。要するに、聞いてみると当の人は某省の局長をしているわけであるが、一体自分は何をすべきなのか時に疑問を感じるという。つまり、政策的な重要な課題については、当然ながらまず大臣があり、それを補佐して複数の副大臣、更に政務官(これらも複数)がいる。勿論、従来通り事務次官がいるわけだが、こうなるといったい局長は何をするのか、一体何を提言すべきなのか迷うと同時に疑問を感じるそうである。筆者から、そうはいっても局長なのだから、政策にわたる判断は多数あるのではないか、と聞いてみたが、確かにある政策のメリット・デメリットの分析など検討を要することは多数あるが、これら政策の「制度設計」ともいうべき分析と合理的な仕組みの検討等は、せいぜい上級課長がいれば十分であり、更にその上に幹部(局長)として付け加える事、判断すべきこと(自分の上に大臣をふくめてさらに5人いるのだ!)はほとんどないに等しいーと述べていた。となると組織幹部の責任とは一体どこにあるのだろうか。

都について、豊洲への市場移転の決定と言う政策マターについて誰が、どこまでが責任を負うべきなのかーと言うように、より具体的な件を考えて見ると、この組織と責任と言う不思議な関係がよくわかる。最近、インターネットで、市場の豊洲移転は自分が決めたとかいう元の市場長が現れて話題になっているが、その言っていることを見てみると、要するに 自分はいろいろ調べて豊洲を選んだーそしてその旨を当時の石原知事に進言したら、石原知事は、「--そっちの方にしよう」と言って決まった。だから決めたのは自分だが責任は知事にあるーと言うような報道になっている。そうだとすると、この市場長に代表される都の官僚組織の幹部の責任とは何なのか?組織的な決定という「ヌエのように不思議な物」がこれほど理解しにくいのだから、更にこの上に小池流に「有識者懇談会」などが入ってきたら一体どうなるのか? 元官僚の筆者として、どう理解したらよいのか。我ながら困惑するばかりだ。

勿論、官僚はなにか「法律違反」をすれば当然ながら法にもとづいてその責任を問われる(これは法律的には懲戒処分の分野に属する)。このような法律違反とある政策マターの責任問題とは別物である。今回の豊洲市場の件についても、盛土をしていない事を十分承知していたにもかかわらず議会のしかるべき会合ですべて盛土をしましたというような虚偽の答弁をしたーーと言う点については、官僚は(この場合は政策決定に関係のないような末端官僚であっても)、職員の懲戒規定の適用対象となるだろう。しかし、ここで問題にしているのは、政策マター、都で言えば、そもそも豊洲に移転することが正しい決定だったのかと言う事がポイントである。つまり、そのような政策決定が「適切であったか、不適切であったか」と言う事になれば、これは一概に言えない。それこそ今後の歴史的な評価に待つと言う事になるだろうし、そうなればさまざまな見方があることになるだろう。

先日、百田尚樹の書いた記事を見ていたら、興味ある事を指摘している。つまり、「近代的な国家における官僚」はすべて法に基づいて行動している。逆に言えば法の範囲内でしか仕事をしないし、できない(だからこそ、役人は常に自分の省のつまり、法的な権限拡大にきわめて熱心である)。つまり、官僚も、勿論法に違反しておれば懲戒対象になる、つまり責任を問われる。逆に法に定める範囲内で決定している限り、法的な責任はない(せいぜいがその決定の妥当性が問題になるだろうが、上に述べたように、これは歴史認識の問題分野である)。

このような、事を考えていた先日、朝日新聞の記事「第九条と報道」のなかで、かつての陸軍の荒木大将や佐藤賢了が出所してくる場面の記事が出ていた。そしてその中で、これら出所者が何ら反省の意を見せにないことについて、いったい彼らは巣鴨で何を考えていたのか、謝りの言葉を聞きたかった、という批判の記事が添えられていた。しかし、上に述べたような組織(官僚機構)と、その一員の「責任」と言う事になるとはたしてどうだろうか?荒木大将や佐藤賢了など出所してきたもと官僚たちは、複雑な官僚組織のもとに決定されなされた今回の戦争について、自分に「責任」があると考えた人はいたのかどうか。自分に責任があると思わなければ、謝るはずもない。

かといって、今回小池知事による様々な検証が無駄だというわけではない。このような検証により官僚的なシステムがいかに働いているかというその仕組みがよくわかるだろう。官僚には簡単には責任はを問えないということ、そして、さらにこの上に有識者会議や審議委員会などを積み上げていったら益々わかりにくくなるだろう、と言う事である。とはいえ、見方を変えれば、今回、頭の黒いネズミを探すと言う事ではなく、このように(日本全体を含めて)組織による決定システムがいかようになされていくのか明らかにされ、白日にさらされること自体は(歴史的な問題意識から見て)有意義であろう。

結局、百条委員会が開かれると言う事の様であるが、一体何をするのか。なにか、汚職問題が絡んでいるとか、あるいは、例えば、盛土がないことについて十分承知していながら敢えて嘘の答弁・証言をしたと言うような違法問題がない限り、石原元知事としては、私がいろいろ意見を聞いて決定しました。それで何か?と言う事になるのではないか。知事がしかるべく判断し決定することについては、選挙を通じ都民から信託を受けている。結果については要するに歴史の審判を待つばかりである。

さて、以上を読んで全く何が何だか分からなくなったという印象を持つとすれば、それはそれで全くその通りである。この問題について、もう少し整理してみるならば、日本の官僚システムについても、アメリカ流の「スポイル・システム」の導入を図るべきだ。そうすれば少しは問題がはっきりしてくる。尤も、現在すでに各省に、大臣以下副大臣、さらには政務官もいるわけだから、すでにある意味での「スポイル・システム」は始まっているとも考えられる。(これら副大臣は政変・内閣改造と共に在任中の責任を明らかにする意味で交代するわけだから)。上記に述べた某省の局長も、この際、新しい日本型の「スポイル・システム」が始まったのだと理解して、その仕事から政治色を極力排し、事務的で、分析的なものに限っていくーーそういうような時代の変化があったのだと受け止めていくことが必要だ。

カテゴリー: 未分類   パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です