ツイッター(トランプ5)

最近はツイッターなる投稿が盛んである。これについてはかねてから疑問を感じていた。これは、「言語(音声)空間」なのか「文章空間」なのか。ツイッターは極短文であり、日本語では、「つぶやき」と訳されているらしい。140語以内という制限があるようだが、これで本当に意見が言えるのか。この様な超短文で意見を言うことはまず不可能と思っていたが、最近では、安倍総理も使っているようだし、かつていろいろ世を騒がせ、要するに政治的な話題の多かった鳩山総理も使っていたという記憶がある。この程度の短文で一体何が言えるのか、まあ、学生の飲み会の後のちょっとしたコメントか、朝のあいさつ程度の話だろうと思っていたが、先般のトランプ大統領の当選で俄然このツイッターに対する関心が高まった。

様々な報道によると、今回のアメリカ大統領選において、トランプはこのツイッターを多用ーそして有効に利用したらしい。むしろ、このツイッターを有効に活用し、これを多用した方式こそ、今回のアメリカ大統領選でトランプを大方の予想を翻す形で当選に導いた原動力となったようだ。つまり、つまりツイッター恐るべしというか、ツイッターこそ今回のアメリカ大統領選挙の形を変えたのであり、アメリカの選挙戦あるいはもう少し広く見れば報道合戦も、この新しい手法の導入により歴史的というかこれまでと違う新しい姿を見出したのだ、と理解すべきである。当選後もこのツイッターーを利用しているようで、なにか、重要な政治的な動きについて、新聞等一般メデイアが、あれこれ様々な議論を提供していることに対しトランプは、ツイッターで応じているらしい。つまり、見ていると、今度はメヂア或はその読者の方で、大統領としてどのように考えているのかというような関心事項については、トランプのツイッターを注目すると言う事になっている。

このような変化は、歴史的に見れば、ラジオが普及し始めていたころ、第二次世界戦争におけるアメリカのルーズベルト大統領の炉端談義シリーズ、あるいはかつてのケネデイ・ニクソン戦におけるテレビ画像の果たした役割にも比較することも出来る。ツイッターは、そのような対比の中で理解すべきものだったのだ(と今になって思い知る)。

さて、上にふれた、「言語(音声)空間」と「文章空間」とは本来大きく違うものである。この点は、かつてと言ってもごく最近までつまりは戦後あたりまでは、はっきりと違っていた。文語体と口語体の違いである。古い手紙などを見ても、ーごく最近までー文章は文語体で書かれた。明治以降口語体の文章が当たり前になったが、やはり、文語体もかなりつかわれてきた。この歴史が示す通り、長い歴史の中で見ても文章空間と言葉・音声で伝える空間とは明らかに違うものとして培われてきたのだ。筆者は、「新約聖書」の日本語訳をいくつか持っているが、時に、これら読み比べてみると、明らかに文語体訳の与えるインパクトは格段に違う(筆者が持っているのは初版明治43年のエ・ラゲ訳。日本では、文語体訳はこのラゲ訳しかないらしい)。なにか、文語体は多少韻律のようなものを含んでおり、そのつくりだすイメージが鮮やかである。それだけ、記憶にもとどまりやすい。このように、かつては文章空間と通常の言語(音声)空間とは区別されていたわけであるが、現在ではこのような文章体の区別はなくなっている。しかし、それでも(つまり、現在普通に見られる完全口語体の場合でも)、やはり、「文章空間」と「言語・音声空間」とは明らかに違う。これは、例えば、自分が日常話している会話等を録音して、さて、これを記録として文章におきなおそうとするようなときによく経験することである。つまり、どうしてもしゃべっているままでは文章にならないのである。このようなときは、あわてて、こちらを消して見たり、いくつかの言葉をまとめてみたりして要するに文章の形に書き直す。似たような経験は、例えば、雑誌などで、対談や鼎談記録などを読むときにも経験する。雑誌に載るくらいだから、既に文章の全体としての構成は十分に点検・構成されているはずであるが、それでもこのような本来は言語・音声空間であった対談の記録は、なにか論点のかみ合わない感じ、前後のつながりが不明確なところがあるように感じる。これは、本来は言語・音声空間として作り出されたものを、適宜、文章空間へと焼き直している以上どうしても避けられない、ある種の誤差を示している。

翻って、文章空間として初めから作り出されたものは(俳句等の詩歌は別にして)、言語・音声空間とはなにか異なる原理が働き、あるいは適用される。これは一体どのような原理なのか。考えられることはいくつかある。少なくとも文章である以上、全体としてある種の構成が必要である。つまり、出だしがあり、この後に続く論点についてのおよそのポイントが示され、つづいて論理展開があり、なにか結語がある。これは最低限必要であろう。勿論、文章にする以上すくなくともその文章内のそれぞれの言葉の意味は同一であるはずだし、主語が何か、そして述語が何かは明確にしなければならない。この論理性と明瞭性は、単にその文章だけに適用されるものではなく、実は同じ筆者である限り、以前に発表した文章との論理整合性も求められる。仮に、以前とは意見を変えたとするならば、少なくとも以前の文章を前提にして、その文章とのつながり、あるいは、つながらない理由はきちんと説明しておかなければならない。これらの特性は明らかに言語・音声空間とは異なる。簡単に言えば、言語だけならば、そんなことを言ったっけとか、あるいはその意味はじつはこういう意味なのだとかいう類の言い訳も可能になるが、文章となるとそうはいかない。

今回のアメリカ大統領選挙におけるトランプの言動とその分析については、最近の「文芸春秋(㋃号)」で渡辺恒雄氏が興味ある論評を寄せている。そのなかで、渡辺氏はトランプ陣営が、言葉としていわゆる呼びかけ的な言葉、標語的な言葉を多用し、折に触れそれを繰り返すという戦略を取ったことを指摘し、これを、かつてアメリカのニュース番組のアンカーとして長年第一線で活躍したウオルター・クロンカイトの言葉を引用して分析している。クロンカイトは、このように標語的な言葉やほぼ単語でしかないような言葉を相手に繰り返し、投げつけるような当時の報道の在り方を、サンウンド・バイト・ジャーナリズムと呼んで厳しく批判したそうである(なるほど、このバイトと言う英語は、ちょっとした強い響きの言葉で相手にかみつくと同時に議論をそれだけで済ませてしまうと言うような感じがよくわかる)。そして、渡辺氏は、結局、今回のトランプの作戦はまさにこのサウンド・バイトの類と見るべきと指摘している。このように説明されると、今回のトランプの選挙戦術は、アメリカにおける長いメデイア論争の中で、これまでも繰り返し使われてきたサウンド・バイト作戦の流れに沿うものだったのかと、とりあえずは納得する。なお、余談であるが、筆者が最近読んだダーウィンの進化論ー「21世紀に読む『種の起源』D.N.レズニック」--のなかで、このサウンド・バイトと言う言葉が出てきて驚いたことがある。知られているようにダーウインの進化論(1859年)は、イギリスの学会と言うかもっと広く言論界で大変な論争を呼ぶことになったが、そのような論争の中では、論理的な反論と言うよりも言わば揚げ足取りの「啖呵」を切るような論者もあったようで、この本の訳者はこの「啖呵」の横にサウンド・バイトと注を入れている。この訳者は、原文のサウンド・バイトという英文をどう訳すか多少迷いがあり、わざわざ横書きをつけたらしい。こうしてみると、要するに、サウンド・バイトとは英語としては一種の捨て台詞のようなものと言えよう。そして、トランプはこのような捨て台詞を多用したのだ。

ここで、重要なポイントになるわけだが、このような啖呵あるいは捨て台詞のようなものが言語(音声)空間で使われているならば、それはそれであるべきところにある(つまり、誰でも捨て台詞でも言いたくなるような場面は経験しているはずだし、それはそれで悪いわけでもなくまた異常でもない)と言える。しかし、ツイッターは正にこの「捨て台詞」を文章空間に持ちこんだのである。ここが重要なところであり、かつ、翻って言えばツイッターというシステムの革新性がある(これは誰が開発したのか忘れてしまったが)。ツイッターは、まさに文章である。しかし、同時にあまりに短すぎて文章の作法にははまらず、しかも、同時に文章空間としての作用・力を発揮する。つまり、先ずは、これが文章である以上人々の記憶にとどまり、かつ一つの論理的な文章体系として作用もし、かつ、人々の論理的な分析と検討の対象にもなりうる。しかし、これは、実は「啖呵」に過ぎず、書いている人(文章である以上書いている人と言う事になる)は、言い散らかし、論理的な整合性もものかは、次々と言いたいことに移っていける。このように、ツイッターは今まで考えることのできなかったような文章空間を作り出したという革新性を持っている。

一時、ツイッターの不振が伝えられ、その対策として制限字数を1000字位に広げる案が検討されているというような報道があったが、筆者はこれに疑問を感じた。仮に、ツイッターが1000字レベルに広がることになれば、これは立派な文章空間を形成し、もはや「啖呵」では済まされなくなるだろう。そし、そうなればおそらく書く方もまた、読むほうも文章空間にあるものとして、その論理一貫性や序論ー結語などの基本作法に悩まされることになり、ツイッターとは全く違う世界になるだろう。

前記渡辺恒雄氏は、その論文の表題を「ツイッターで政治は劣化する」としている。この論旨は以上の論旨と同一のものであるが、筆者は論点をもう少し広げツイッターという言語表現形式の特性の問題としてとらえたい。ツイッターと言う世界はこれまでにない型破りの、新しいものだ。しかし、これを逆に言えば、この世界にいる限り文章空間が要求するような論理性も、一貫性も、また、少なくと結果として筆者が何らかの熟慮を働かすという事も要求されない。それでいて文章としての力を発揮する。この点を十分認識すべきだ。どんな議論にも賛成があり反対がある。そしてそれらの議論は少なくとも理性で分かるような論理性が必要だ。ツィッターはこれとは全く異なるものである。とすれば、ツィッターがいくら飛び交っても結局はなんら議論は深まらない。要するに一歩も前進しない。とすれば、トランプ大統領がツイッターを使っている限り、また、メヂイアが(そしてこれを読む人も)トランプのツイッターを追い回している限り、議論は全く進まない。

ツイッター世に送り出した、その革新性に敬意を払うが、同時にツイッターを蔑視することも必要だ。その意味で、本来議論を展開すべき政治家がツイッターを多用し、これで何かを言ったような気分に浸ることは、危険と言うか不毛である。この新しい表現方式をきちんと理解し、これに対応することが必要だ。

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