役人の仕事と責任

 少し前になるが、中国からトップクラスの要人の来日が決まり、日本側として天皇陛下との面談を日程に組み込むかどうかが問題となったことがある。このとき中国の要人を招き、アレンジをしたのは政治家小沢一郎。ところが、受け入れ側の日本では、羽毛田宮内庁長官が難色を示した。普通、日本側で天皇陛下との面談がアレンジされるのは大体2か月前からの申し入れが慣例となっている。たまたまこの話が持ち込まれた日にちではこの2カ月に足りない。ということで羽毛田長官は、この取り急ぎ面談には難色を示した。長官の話によると、そもそも、この慣例は天皇陛下の御公務の調整や御負担などを考慮して決められているもので例外扱いは難しいという趣旨だった(確かその旨の記者会見も行われ、宮内庁の考え方が公にされたと記憶する)。このとき、政治家小沢一郎は強く反発した。天皇陛下の中国要人との面談と言うことになれば、それは、最高レベルの政治判断である。政治がこれを求めているとき、なぜ役人が反対するようなことを言うのかーそもそもとやかく言えるのか。これは役人(たしかこのとき「小役人」と言う言葉が使われたことを記憶する)の言うべき言葉ではない。ということで結局、天皇陛下との面談が、いわば急きょ設定(たしか慣例のルールより数日不足していたと記憶する)された。まさに政治が決めたのだ。このときの羽毛田長官の上記のような言説は多少話題になったが、羽毛田長官のその後の発言は明快である。長官は「これは私の仕事であり、仕事である以上自分の判断で行動する」と述べたことが伝えられている。

これも少し前になるが、尖閣列島に中国の漁師船が接近したことがある。海上保安庁の船が割って入る形となり、結局、保安庁の船と当該漁船が接触と言うより衝突した。このときの録画映像は秘とされ一部国会議員のみに短時間の編集版が公開されたということで、逆に注目を集めたが、その後この全映像がインターネットで公開されていたことが判明したことは周知のとおりである。このときの中国側の船長の法的な扱いをどうするかは、日中両国にとって大きな問題である。つまりその政治的な意味は大きい。あきらかに、船が衝突するという船長の行動は、日本の保安庁の行動に対する公務執行妨害にあたり、であれば逮捕、起訴に進むはずだ。日本国内で法律違反が行われたという立場をとる以上これは譲れないところだ。しかし、そうなると日中関係がどうなるか。しかも行動の詳細はビデオ化され知れ渡っている。誠に苦しい局面である。これこそ苦渋の判断がおこなわれる政治的な場面であると思い、なにかハラハラするような感じで見ていたら、船長は何事もなくにこやかに帰国した。このとき仙石官房長官は、記者会見で、沖縄地検(つまり役所と言うことである)が「判断された」と述べた(たしか敬語が使われたことは確かである)。

しばしば役人は自分のしたことに責任を取らないと言われる。これは最近ではなにか当たり前の常識と言われているようだ。あるところで話を聞いていたら役人批判が行われている。役人は責任を取らない。だけではなく妙に受験戦争で勝ち抜いてきただけさらに始末が悪い。つまり、過去の間違いを速やかに「学習」し、今度は、うまくごまかし、責任を隠ぺいするということについては実に高い能力を発揮するーーという趣旨で、元役人の筆者としてはなにか愕然とした思いで、座り心地が悪くひそかに途中退席した。こうなると自分の家族にも聞かせたくないような批判である。役人の責任とは一体何か?これはよく考えてみる必要がある。

先般、国家公務員試験の結果発表があった。かつては、国家公務員Ⅰ種と言われていたが、最近では、総合職と言われるらしい。資料によると、その職務内容は、「主として政策の企画立案等の高度の知識、技術又は経験を必要とする業務に従事する」こととされている。とすると、この役人の責任は?簡単には書けないが、要するになにか(たとえば社会保証制度や金融制度などの)制度設計を含め、なにか一つの政策を企画立案(法律を制定するなどはその典型的な例であろう)した場合には、その責任を取らなければならないということになる。つまりその「企画立案した政策が失敗した場合」は、それについて責任を取らなければならない。今回めでたく総合職に合格した人は、張り切って頑張るのは当然として、この責任のことを身にしみて感じ、かつ受け止めなければならないわけだ。しかし、これはどういう意味なのかーどのように責任をとるのか。

先日、テレビを見ていたら、外務省の総合職合格者の入省式のようなものが行われたらしい。玄蕃大臣の「外交は人である」、と言うような趣旨のあいさつ映像の後、これら若き総合職のちょっとしたインタビューが映ってくる。「自主外交を堅持しーー」「笑顔で接するが同時に国益を主張するーー」ーーーーーなどとそれぞれに抱負を語っている。しかし、政策に失敗したら責任がやってくるのだ。ここで想像が飛躍する。ーー白鳥敏夫元イタリア大使(「外務省革新派」戸部良一、中公新書)、大島浩元ドイツ大使(昭和天皇ー「ベルリンの大島からの報告はあるか」 何分軍人の報告は意気込みが入っておりますので、と前置きして重光はいった。「大島大使は、ドイツは最後には勝つと報告してまいりました」「昭和天皇 第6部」 福田和也 文芸春秋))の活躍とその責任は?

総合職役人の一番の仕事は政策の立案であり、その一つの典型は、法律の制定或いは改定であろう。これは実際に大変な作業である(勿論、これで給料をもらっているわけであるから文句を言える筋合いではないが)。筆者の経験でも、先ずは上司の指示を咀嚼しつつ自分なりの案を作る。これも大変だがそれからも大変である。この案の関係業界への説明、説得。勿論、有力政治家には十分な説明、根回しも必要だ(いまではこのような事は許されていないようであるが)。これらに応じて軌道修正も必要となる。修正となったらまた説明は最初からやり直す、云々。要するに、知的に大変であるが同時に肉体的にも試練である(いろんな人との面談も自分の都合の良い時だけ会えるというものでもない)。そこで結果として負うべき責任を考えるのだが、これでも分かる通り、このような事を繰り返していると自分(一人の役人)の仕事はどこまでか、一体責任はどこで誰にあるのかはっきりしなくなる。ーーーしかし、そんなことを実際は考えている暇はない。大臣を通し、国会を通過しなければならない。実際には筆者の経験でも、ものすごい能力・体力の人は確かにいる。自分の主張を通し、見事に関係者の説得に成功し、自分の信じる理念に基づき一つの法律或いは政策を貫いていく。とすると、このように有能な人のばあいには、その仕事と責任が一致するのか。ここでまた、想像が飛躍する。謀略によって満州事変を起こした石原莞爾の仕事と責任は?

堺屋太一氏は、役人が身分となってはならないと繰り返し書いている。役人が何をしても責任を取られることもなく、いわばかつての身分のようになってはならないという趣旨と思われる(つまり、間違いがあれば責任をとれと言うこと)。一般に国家公務員法では役人の身分を保障しており(75条)、これは、政権交代などによる政治闘争から身を守り、政治介入を排して、職務の公共性、行政の継続性や中立性を維持するためと説明されている(一方、争議権などの労働権は制限されている)。しかし、公務員法上も、勤務成績の良くない場合(78条)、--職務を怠った場合(82条 2号)ーー国民全体の奉仕者たるにふさわしくない非行があった場合(同 3号)ーーなどの場合は、人事院規則に従い罷免できることを規定しているのでいわゆる懲戒免職はありうる。しかし、政策の企画、立案に間違いがあった場合はどうか。その間違いの認定・程度はどのように判定されるのかはっきりしない。むしろここで問題となるような「問題役人」は、むしろ恐ろしく勤勉、精力的であると考えたほうがよい。ここでも空想を飛躍させると、辻政信(その仕事と責任は?)などの名前が浮かんでくる。

要するに、たとえば、今年、総合職として、晴れて公務員となった諸兄が、どのような場合に責任をとわれるのか、どうもはっきりしない(勿論、汚職などの刑事事件は一般の場合と何ら変わらないので別である)。役人はその仕事に対して責任を取れといわれるし、まったくその通りであると思うが、何をどのようにということはよく考えて置かなければならない。

大学生のころ、行政学(辻清明教授)という科目で初めて公務員採用の「スポイルズ・システム」と言う言葉を聞いた。政権の交代に伴い公務員(だいたい政策立案にかかわる上級公務員)が一斉に交代する、入れ替わるというシステムである。これを聞いたとき、学生ながら本当に驚いた。ほとんどこれはバカではないかーもしこのような事が行われるなら、その名も示す通り、時の政権そして、具体的には自分の上司におもねるだけの役人が増えることになる。当然情実人事が発生するとともに、政策は朝令暮改の弊害を招くーなにかアメリカで採用されているとか聞くが、これこそまさにあきれ返ってものも言えないーーーと学生のころ考えた。しかし、いま振り返ってみると、このスポイルズ・システムの意味合いは改めて違って見えてくる。総合職の責任を問うとすれば、このシステムの採用を真剣に考慮すべき時だ。これでこそ総合職の緊張感が生まれてくる。そして役人の仕事と責任についての、上記のような批判にも答えられるようになるだろう(となると総合職に応募するのも大変だが、しかし、責任をとる以上覚悟すべきことである)。

と書くと、奇妙な結論のように思われるが、しかし、すでに現在、お役所にはやたらと副大臣・政務官がいる、事務次官(その会議)の廃止論(次官による記者会見は廃止されたようだ)、国会での役人答弁の制限、等の動きを見ていると役人を政策形成のトップには参加させないようにするという動き(つまり総合職役人の仕事を制限する。同時に責任も制限されるだろう。)とも見ることができる。と考えると、このような動きは上記「スポイルズ・システム」の近似形とも言える。とすればスポイルズ・システムも学生のころに考えていたほどには荒唐無稽なものとも言いきれないはずだ。

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