トランプ4

トランプ大統領が言っていることは、わかりやすいが意味不明なことが多い。その代表と言うか、典型的な例は、「アメリカ第一」(America first)である。先日も、お昼のニュースの裏番組BSを見ていたら、トランプがなにかヂィナー会食・パーテイみたいなところで、例の調子で、身振り手振りで「アメリカファースト」と叫んでいる。--私はアメリカの大統領である。グローバリゼーョンの旗を着ているわけでもなくく、国際社会を代表している者でもない。アメリカを代表しているアメリカの大統領であるーーと叫んでいる。見ているとこれを聞いて喜んでいる参加者もいるようだ。

しかし、ここでよくわからないのだが、先ずは、一国を代表する、その国で選ばれた首相・大統領が「その国第一」と考えることは当然のことである。国の指導者に選ばれて自分の国の利益を最優先にすることは全く当たり前で、自分の国が第二でいいーーなどと考える事はありえない。日本の安倍首相も「何と言っても日本の国益第一」が、すべての行動原理の大原則であろう。そうでない指導者などは想像出来ないし、世界に全くいないだろう。ロシアのプーチン、ドイツのメルケル、イギリスのメイ、メキシコのエンリケーーーいずれにとっても自国の利益第一であることは言わずもがなの大原則であり、これの点に、国による例外があるとは思えない。実際、現実の国際社会は遥かに残酷で、えげつない姿である。筆者もかつて国際金融機関に勤務した事があり、各国の代表者と何度も交渉した経験があるが、この厳しい各国の割り切り方は驚くべきこととも言えるが、同時に当然の事でもあった。むしろ、国際社会と言うものは簡単に言えば自国第一と言うよりをも、むしろ、自国さえよければ良い、と言う原理が働いている。ということは、このように説明するまでもなく、誰にでもわかっているし、誰でもこのことを考えると心の中ではなにか苦い思いを感じると思うが、この原理が緩むことはない。国際社会の交渉の場を多少なりとも見ておれば、このように国際社会と言うのは実に残酷なものである。遠い将来、各国の軍がなくなることがあるのかどうかわからないが、現実は各国とも軍を抱えており、とにかく最後は自国が生き残ることが最大の目標であり、それが行動原理であり、それに備えている。国の代表する者で改めてこのことを言う人はいない。

勿論、第二次世界含む近代の歴史を顧みると、アメリカは自由社会の擁護と言うような観点から犠牲を払ってきたのではないかと言う面もあるかもしれない(しかし、大戦についていえば、これはアメリカドルの基軸通貨制度と言う形でアメリカに膨大な利益をもたらし面もあるが)。このような反省から、現在、アメリカが一つの歴史的な曲がり角にあるのだという指摘もあろう。言い換えれば、アメリカはもはや世界の警察の役割は出来ないのだという考え方が出てきたのだとも言えるが、それは実はオバマ大統領が言ったことである。オバマ大統領は、このような観点からすでにアフガンからの撤退を進めてきた。オバマ大統領の核兵器廃絶の呼びかけも、勿論この兵器の残酷さや人類の滅亡の危機感が基本にあったとも思われるが、同時に、膨大な核兵器を維持して世界を言わば脅し続けることにもはや困難を感じるようになったという意味で、アメリカの力を自国に取り戻そうとする動きであったという見方もあろう。ということで、もはやアメリカは世界の警察ではないと言ったのはオバマであり、このアメリカ第一へ、の流れと言うか回帰は、オバマ大統領のイニシアチブであり、又、オバマ大統領の言葉である。

と思っていたので、このトランプアメリカ大統領の発言はどう考えてもなんら新鮮味もなく刺激的でもない。これを聞いているとどうしても頭が混乱する。日本の安倍総理も奇妙な感じがするだろう。これを聞いて、世界の首相・大統領も?、だろうし、これを聞いて喜んでいる国民の姿を見て不思議な気がしているに違いない。

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小池顧問団

小池都政が注目を集めている。自民党主流派からの選出と言うわけではなく、小池派ともいえる立場を明らかにしていることによるのだろう。意識してリダーシップの発揮に努めているようだ。そのなかでも、一つ興味深いことは、なにか都政の主要な課題・問題となるとしきりと有識者による顧問団を指名することである。先日もなにか子供の育児に関する有識者会議の結論が出たとかで、有識者の委員長がにこやかに(やや嬉しそうに)小池知事に報告書を手渡す場面がテレビで報道されていた。小池都政はこのようないわゆる有識者委員会を多用するようだ。いわば、小池知事とその顧問団が都政を動かしていくという姿が見て取れる。

このような顧問団の活用は珍しいことではなく、実際、国の政策でも様々な「有識者会議」あるいは「懇談会」などが使われており、かつて官僚の一員であった筆者も、国の政策マターについて専門家による懇談会を開催した経験もあり思い出もある。小池都政はこのような手法を踏襲しているだけだと言う事であろうが、これがどうやら小池知事の政治手法として今後も多用されていくというと言う事になると、改めて一つの疑問が浮上してくる。つまり、そのように専門家・有識者の意見が直接トップにむすびついていくようなことになれば、一体、都の副知事や局長職は何をするのかーーこれら幹部職員と知事との関係はどうなるのだろうか。つまり、都と言う官僚システムの幹部職員こそ、これまでの長い経験と知見、更に高い管理能力からして、知事に政策提言する最大かつ最強の「顧問団」ではないのか。いわゆる有識者会合がはびこるにつれ、一体彼ら(都の最高幹部職員)は何をする(あるいは何をすべきか)、という疑問が湧く。

より一般的に、そもそも役人・官僚(勿論、ここでは政策の策定にかかわりあうような上級官僚と言う事になるが)の果たすべき役割、と、知事あるいは大臣など組織のトップとの関係はいかなるものなのか、あるいはいかなるものであるべきだろうか?このような問題意識は、必ずしも都政に限ったことではなく、もっと一般化できる。つまり、そもそも官僚組織においてその上部官僚と組織のトップたる大臣・長官・知事との関係はいかなるものであるべきかという問題である。つまり、このような官僚組織の外にあるいわゆる有識者・専門家が組織トップの顧問団としての機能を果たした場合、それでは、その決定の責任は誰が取るのかという問題にもなる。これに対して、その答えは明白だ、「顧問」は単に意見を述べるだけであり、その決定に関する責任はすべて知事にある(有識者・顧問団にはない)、と答えるならば、これと全く同じ議論で副知事、以下上級官僚(顧問団と同じく意見を述べたに過ぎない)にはなんら責任はないと言わなければならない。勿論、上級官僚は、それでしかるべき給与を受けているのだから顧問団とは違う責任があるはずだという議論もあるかもしれないが、そそれは、その進言がはたして「良心的ないしは誠実なものであったか」どうレベルの問題であって「責任」と言う問題にはならないはずだ。逆に言えば、例えば都の副知事、市場長はなぜ、あるいは、何の責任を問われるのか?そもそも政治的トップではない官僚組織の長または上級幹部の取るべき責任はあるのか?と言う事になる。

都知事にしきりと意見具申している専門家・有識者・顧問団には一切責任はないと言うならば、同じく知事に進言する上部官僚も責任はないと言えるだろし、仮に上部官僚には責任があるというなら、この両者の違いはどこから来るのか、どんな責任なのかという疑問が湧く。

以上のような問題意識を改めて整理してみると、結局、行政学などで出てくる組織の「スポイル・システム」の考え方が浮かんでくる。スポイル・システムの考え方は、仮に政治的な変動があれば(大統領交代などの政変があれば)その組織のトップのみならず上部官僚が、一斉に変更されるというシステムである。アメリカの官僚組織はこのようなスポイル・システムであり、まさに今ワシントンは元の政権下で上級官僚を務めた職員の大移動が始まっている(筆者もワシントン勤務時代、クリントン政権の発足による上級職員の大移動を見た。大体3000人くらいと言われるが、異動が落ち着くまでには半年はかかる。もっと、アメリカでも、このスポイル=猟官システムは一定の職までにとどめられているそうであるが)。そういえば、アメリカの政治の中では、この小池知事あるいは筆者も経験したいわゆる「有識者顧問団」と言うような機能・組織・団体が、あったのだろうか。思い出してみても聞いたことがない。勿論、アメリカでも、業界団体はあるし、また、特定の政策事項については、ロビー団がありしきりに活躍し大統領あるいは議会議員に働き掛けるを行う。しかし、、これは、はっきりと見返りとして報酬をもらう活動家であり、日本のいわゆる有識者とは全く違う。一方、スポイル・システムである限り、アメリカの上級官僚は日本の顧問団と同じく政策の進言者であるとともに、日本の顧問団とは全く異なり政権の変動と共に(責任を取る形で)辞めていく。

以上は、要するに行政組織がなにかある政策的な決定を行う場合にだれがその責任を取るのか、そのシステムはどうなっているのかと言う基本的な疑問である。国の問題に振り替えると、しばらく前の官僚バッシングの結果、各省庁の重要な(つまりは政治的な)決定システムが大幅に改定され、かつて(筆者が経験してきたような)システムと今は大きく変わっている。先日、所要があってたまたま財務省を訪れたが、かつて慣れ親しんだ建物の2階にある幹部席の様子は全く変わっている。当然ながら、かつては事務次官が最も重要な幹部であり(政務次官は当然隣にいたが)、大臣室の隣に位置していた。しかし、そのようなイメージで久しぶりに財務省を訪れると全く様子が変わっている。何しろ今や大臣の次には副大臣(2人)があり、政務の次官席(これも2人いる)が並んでおり、かつてなにか威厳を構えていた事務次官室は一体どこにあるのかとうろうろする始末であった(いまや廊下の端の方にある。)これで、思い出すのだが、先日ちょっとしたパーテイで、某省幹部の一人である局長に会って立ち話をした。その時、その局長がしきりと嘆いているというか奇妙に困惑したような話をする。要するに、聞いてみると当の人は某省の局長をしているわけであるが、一体自分は何をすべきなのか時に疑問を感じるという。つまり、政策的な重要な課題については、当然ながらまず大臣があり、それを補佐して複数の副大臣、更に政務官(これらも複数)がいる。勿論、従来通り事務次官がいるわけだが、こうなるといったい局長は何をするのか、一体何を提言すべきなのか迷うと同時に疑問を感じるそうである。筆者から、そうはいっても局長なのだから、政策にわたる判断は多数あるのではないか、と聞いてみたが、確かにある政策のメリット・デメリットの分析など検討を要することは多数あるが、これら政策の「制度設計」ともいうべき分析と合理的な仕組みの検討等は、せいぜい上級課長がいれば十分であり、更にその上に幹部(局長)として付け加える事、判断すべきこと(自分の上に大臣をふくめてさらに5人いるのだ!)はほとんどないに等しいーと述べていた。となると組織幹部の責任とは一体どこにあるのだろうか。

都について、豊洲への市場移転の決定と言う政策マターについて誰が、どこまでが責任を負うべきなのかーと言うように、より具体的な件を考えて見ると、この組織と責任と言う不思議な関係がよくわかる。最近、インターネットで、市場の豊洲移転は自分が決めたとかいう元の市場長が現れて話題になっているが、その言っていることを見てみると、要するに 自分はいろいろ調べて豊洲を選んだーそしてその旨を当時の石原知事に進言したら、石原知事は、「--そっちの方にしよう」と言って決まった。だから決めたのは自分だが責任は知事にあるーと言うような報道になっている。そうだとすると、この市場長に代表される都の官僚組織の幹部の責任とは何なのか?組織的な決定という「ヌエのように不思議な物」がこれほど理解しにくいのだから、更にこの上に小池流に「有識者懇談会」などが入ってきたら一体どうなるのか? 元官僚の筆者として、どう理解したらよいのか。我ながら困惑するばかりだ。

勿論、官僚はなにか「法律違反」をすれば当然ながら法にもとづいてその責任を問われる(これは法律的には懲戒処分の分野に属する)。このような法律違反とある政策マターの責任問題とは別物である。今回の豊洲市場の件についても、盛土をしていない事を十分承知していたにもかかわらず議会のしかるべき会合ですべて盛土をしましたというような虚偽の答弁をしたーーと言う点については、官僚は(この場合は政策決定に関係のないような末端官僚であっても)、職員の懲戒規定の適用対象となるだろう。しかし、ここで問題にしているのは、政策マター、都で言えば、そもそも豊洲に移転することが正しい決定だったのかと言う事がポイントである。つまり、そのような政策決定が「適切であったか、不適切であったか」と言う事になれば、これは一概に言えない。それこそ今後の歴史的な評価に待つと言う事になるだろうし、そうなればさまざまな見方があることになるだろう。

先日、百田尚樹の書いた記事を見ていたら、興味ある事を指摘している。つまり、「近代的な国家における官僚」はすべて法に基づいて行動している。逆に言えば法の範囲内でしか仕事をしないし、できない(だからこそ、役人は常に自分の省のつまり、法的な権限拡大にきわめて熱心である)。つまり、官僚も、勿論法に違反しておれば懲戒対象になる、つまり責任を問われる。逆に法に定める範囲内で決定している限り、法的な責任はない(せいぜいがその決定の妥当性が問題になるだろうが、上に述べたように、これは歴史認識の問題分野である)。

このような、事を考えていた先日、朝日新聞の記事「第九条と報道」のなかで、かつての陸軍の荒木大将や佐藤賢了が出所してくる場面の記事が出ていた。そしてその中で、これら出所者が何ら反省の意を見せにないことについて、いったい彼らは巣鴨で何を考えていたのか、謝りの言葉を聞きたかった、という批判の記事が添えられていた。しかし、上に述べたような組織(官僚機構)と、その一員の「責任」と言う事になるとはたしてどうだろうか?荒木大将や佐藤賢了など出所してきたもと官僚たちは、複雑な官僚組織のもとに決定されなされた今回の戦争について、自分に「責任」があると考えた人はいたのかどうか。自分に責任があると思わなければ、謝るはずもない。

かといって、今回小池知事による様々な検証が無駄だというわけではない。このような検証により官僚的なシステムがいかに働いているかというその仕組みがよくわかるだろう。官僚には簡単には責任はを問えないということ、そして、さらにこの上に有識者会議や審議委員会などを積み上げていったら益々わかりにくくなるだろう、と言う事である。とはいえ、見方を変えれば、今回、頭の黒いネズミを探すと言う事ではなく、このように(日本全体を含めて)組織による決定システムがいかようになされていくのか明らかにされ、白日にさらされること自体は(歴史的な問題意識から見て)有意義であろう。

結局、百条委員会が開かれると言う事の様であるが、一体何をするのか。なにか、汚職問題が絡んでいるとか、あるいは、例えば、盛土がないことについて十分承知していながら敢えて嘘の答弁・証言をしたと言うような違法問題がない限り、石原元知事としては、私がいろいろ意見を聞いて決定しました。それで何か?と言う事になるのではないか。知事がしかるべく判断し決定することについては、選挙を通じ都民から信託を受けている。結果については要するに歴史の審判を待つばかりである。

さて、以上を読んで全く何が何だか分からなくなったという印象を持つとすれば、それはそれで全くその通りである。この問題について、もう少し整理してみるならば、日本の官僚システムについても、アメリカ流の「スポイル・システム」の導入を図るべきだ。そうすれば少しは問題がはっきりしてくる。尤も、現在すでに各省に、大臣以下副大臣、さらには政務官もいるわけだから、すでにある意味での「スポイル・システム」は始まっているとも考えられる。(これら副大臣は政変・内閣改造と共に在任中の責任を明らかにする意味で交代するわけだから)。上記に述べた某省の局長も、この際、新しい日本型の「スポイル・システム」が始まったのだと理解して、その仕事から政治色を極力排し、事務的で、分析的なものに限っていくーーそういうような時代の変化があったのだと受け止めていくことが必要だ。

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トランプ3

 トランプ大統領については、その選挙戦の最中から様々な映像が流されてきており、そのたびにトランプの暴言と言うようなことが引用・紹介されてきた。これらを見ているだけで、トランプの選挙戦と言うものが型破りと言うか全くありえないような形で進んできたことがわかる。

これらの映像・発言のすべてを見てきたわけではないが、これらの中で実に衝撃的と言うか、およそ理解を超える場面が報じられていたことを思い出す。それは、選挙戦中のトランプ(候補)の記者会見の場面である。トランプ(候補)は、なかなか公開の一般記者会見をやらなかったらしく、この選挙戦終盤の記者会見は大きく報じられていた。そのなかで、実に驚くべきことにトランプ(候補)が、記者からの質問を避ける場面である。避けるというか、そのテレビの場面では、質問のために手を挙げている記者に対して、私はお前の新聞を相手にしない、お前のところの記事は嘘ばかりだとまさに文字通り指さして批判するところである。勿論、記者の方も、さすがにアメリカのメデイア魂の持ち主というべきか、お前の質問は受けないとトランプが叫び続けても臆することなく、自分はあなたの意見を聞きたいのだ、返事を求める、--と言い続け、これが、トランプの罵声と重なって実に激しいやりとりとなっている場面が報じられていた。このトランプとメデイアとの激しい敵対的な関係は選挙戦の中で見る場面としては実に異常である。つまり、トランプの意見に対して記者が反論し、これに、またトランプが答えると言うような議論の激しさではなく、会見する方が名指しでメデイアを嘘つきと呼び、質問に答えないばかりか、当のメデイアをこの会見から排除しようとしていることの異常さである(思い出してみると、日本では当時の佐藤総理が、最後の記者会見の際、テレビはけしからんとか言ってコップの水をかけ、追い出したという事件を思い出すが、これは、既に辞任決定後の会見であったわけであるから、トランプの異様さとはまた違っている)。

およそ民主主義的な政治体制である限り、政治家(その候補者を含めて)とメデイアとの関係は、決定的に重要である。政治家にとって、このメデイアは選挙民の意向・考え方を知る最も重要なルートであり(勿論、場合によっては世論を操作する上においても)、メデイアとの良好なあるいは(多少敵対的な感じを含みつつも)微妙なバランスをとっていくことが不可欠である。このことは又民主的な体制において政治家を志すもの、或は、逆に、政治に関心を示す投票者にとっても最も重要な要素と言うかリンクである。であるから、記者会見そのものも極めて重要であるとともに、この記者会見が開かれたものでかつ公平でなければならない(少なくともそのような印象を与えなくてはならない)。

こういう観点から見ると、日本の記者会見の中では、ほぼ毎週行われる菅官房長官の記者会見が、筆者の言わばお気に入りスタイルである。内容の点はこの際別問題として、菅さんの会見スタイルーーつまり質問の取り方が実によい。自分のステートメントが終わると、ちょっと目を上げ記者を見回すようなしぐさをしてから、質問をとる相手をちょっと顎で示す。これが実に自然であり、とにかく官房長官はすべてのメヂアに開かれており、相手の選り好みはしていない、この記者とのやり取りは公平なものである、という印象をこの仕草が強く示す。つまり、会見が公開であることが重要であることは勿論であるが、同時にメデイアからの質問はすべて公平に扱われているというスタイルが示されなければならない。

この点、議論を進めれば、現在の「内閣総理大臣記者会見」は何とも異様であり、どうしても違和感がぬぐえない。と言うのは、総理のステートメントが終わった後、それでは質問に移りますと司会者(多分これは内閣官房の事務方の一人と思うが)が、「質問については、私から指名しますので、所属を明らかにして簡潔にーー」と言うようなことを述べ、それではと言って、記者を指名するところ実に異様な気がする。司会者は誰が質問するか当然ながら選べるだろう、というか選んでいるのだーーと思ったとたん、この公開記者会見が実に「間抜けな」ものに見えてくる。当然ながら、(事務方の司会者は記者の名前くらいは分かっているだろうし、だればどんな論調・傾向の人間かくらいは熟知しているはずだから)司会者は、政府側に有利と思われる記者を選んでいるに違いないという感じは必ずしも意地悪な見方ではなく、むしろ自然な見方だろう。実際はそんなことはないのだと言って見ても、このような印象を与える限り、せっかくの記者会見が、「仕組み」としてまったく間が抜けている(そうみられても仕方がない)。

この点、時々報道されるアメリカ大統領の記者会見では(例えば、オバマ大統領の時ものなどなんどか映像を見たが)、大統領が、その場その場で手をあげて指名している。勿論、大統領でも自分の気に入った記者だけを指名しているのではないかとも言えるが(じつは、アメリカでもあらかじめ質問者について根回しのようなものがあるのだと言うようなことを聞いたことがあるが)、しかし、日本の総理会見のように事務方が指名しているのとは全く異なった印象を与える。要するに、形式的に言えば、なにか質問者を指名する乱数表のようなものを使うのが正しいと言う事も言えるが、そこまでいかないにしても、この質問選択は公平に行われているような印象を与えるような工夫が不可欠である。安倍総理の発言自体は、できるだけ自分の言葉でしゃっべっているという印象を与える(この点では実に好感が持てる)が、それだけになぜ、すべてこの裏も表も分かっている「訳知り」の事務方に質問者を指名させるのか、実に残念である。

と言うようなことを考えるのも、このメデイアと政治家、選挙民(テレビを見る人)との関係は民主政体では微妙なものであるとともに決定的に重要であることの一つの例示である。

と考えると、このトランプの態度はただの選挙キャンペーン・スタイルと言う事では済まないはずだ。トランプのこのメデイアに対する態度は、どこかでなにか爆発的な問題(勿論、トランプにとって致命的な)をもたらすに違いない。

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トランプ2

先日、横浜から渋谷行きの電車に乗った。
優先席の端に座っていたが、最近は優先席でも違和感はない。
そのうち、隣の人が降りていき、隣が空席となった。すると、丁度前に座っていた女の人が、なにか手探りと言うような感じで、少しよろけながらこちらの席に移ってきて、お隣の女性に、あー良かったというような声をかけている。二人ともその体格を見ても、また、こちらに移るときの動作などから受ける印象は全くおばあさんと言う感じである。着ているものもこちらに移ってきた一人は白っぽく、もう一人は黒っぽい縞模様で、格段の事はない。要するに普通のおばあちゃんの二人づれと言う感じである。なるほどこの二人は、友達同士だったのかと気が付いたが、別によくあることで気にもしなかった。

そのうちこの二人は、親しげに話し始めた。これもよくあることで、こういうおばあちゃんの世間話は、いつものことながら、訳もなく、なんとなく長々と続くのだろうと、これまた気にもしていなかったがーー

ー昨日、トランプ大統領の記事をみたのよ。トランプ夫人のすごいドレスの写真がでていた。
ー知ってる、知ってる。あの色がすごかった。やはりこれは一流のドレッサーがいろいろ見ているのでしょうね。
ー前の大統領の時はあまり一流ドレッサーのような人は使わななかったとも書いてあったけれど、やはりトランプは違うわね。
ー私、最近テレビで 「物一つ」 と言う番組を見たの。あれは本当にすごかった。日本人の手作業であんなにすごいものが出来るのね。本当に感心したー。
ー私も見たことがあるわよ。竹細工などを使って、実に見事なーー。本当にあれはすばらしい。しかし、トランプはどうも品がないわね。
ーそう言えば、トランプは、アメリカ第一と言うようなことを言っているけれど、あんなことを言っていたらまた戦争と言うようなことにーー
ーそうそう。結局、白人優先と言う事を言っているのでしょうからね。
ーそれに、中国のことを批判しているけれど、アメリカ人は安い中国の製品を使って、結局は、得しているんじゃない。もしアメリカ製品を使うというようなことになったら、かえってアメリカ人が困ると思うけど。
ーそれに、移民を取り締まるようなことを言っているけれど、大体、アメリカは移民でできた国じゃないの。
ートランプだって移民してきたんでしょう。
ーなにか、移民がアメリカの働く人の職場を奪っていると言うようなことを言っているわけでしょ。しかし、だいたい、アメリカに来た移民が本当にどれくらいが働いてるのかしら。移民してきても簡単には働けないでしょうからね。いったい移民のうち実際にどれくらいの割合の人が、仕事があり、働いているのか知りたいわね。
ーそれに、移民の仕事と言うのもほとんどはなにか下働きのようなものでしょうしー。本当にどれくらいが白人の仕事を奪っているということになるんでしょうね。
ー一体、アメリカ人は、いま移民がやっているような仕事を本当にする気があるのかどうかーー。

というところで、電車は駅に着きおばあちゃん二人は、連れ立って降りて行った。
なるほどなるほど、と感心した。

注 THe Economist (日経版 2017・1・24 火 朝刊)「米導く対中強硬派、ナバロ氏」

ーー貿易で潤う懐

中国の貢献4分の1
米国人が安い輸入品を買えなければ貧しくなり、ほかに費やすお金は減る。08年までに工業製品の貿易が全米国人の懐を毎年1000ドルずつ潤したとの試算もある。その4分の1は中国の貢献という。アメリカ大統領経済諮問委員会(CFA)は、貿易障害で製品の価格が上がれば最も貧しい層に最も害がおよぶと最近示した。ー
ーー米の労働者の
助けにならず

製造業の生産が海外に移管され、その後国内回帰してもその間、生産性は通常上昇しているため戻る雇用数は減る。中国が低スキルの仕事を失えば製造業者は米国ではなく、コストの低い他の新興国に生産を移すだけだ。つまり、中国が貿易慣行を改めても、関税を導入しても米国労働者の助けにはならない。ー

丁度、上の「会話」を聞いた翌日だったので、このEconomistの記事を興味深く読んだ。

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今朝目を覚ましてみたら、トランプ大統領が就任していた。--夢ではない。

先日のアメリカ大統領の選挙が10日ほど前に近づいていたという頃、アメリカハーバード大学のジョセフ・ナイ教授による講演の簡単な記録が日経新聞に出ていた。勿論のこと、トランプ大統領などと言う事は考えるというか議論の対象になるようなものではないという論調である(ナイ教授はそのころ日本に来ていたはずだ)。アメリカの一知識人として、あるいは、アメリカのソフトパワーを論じていたナイとしては当然であろう。トランプが当選するなどと言う事はあり得ないーー筆者も全く同感であった。

仮にも、アメリカ大統領にトランプが当選するようなこととなったら、ドルは暴落するだろうーーと筆者は予想し、多少のドル資産をせっせと売っておいた(勿論、一定の予備線ははっておいたが)。ところがトランプ当選が確報となるやドル暴騰である。慌てて、ドル資産を追加売却に駆け込んだ(確かに、どんな場合も予備線をはっておくべし、である)。

アメリカがーー、あのアメリカ社会がトランプに指導者としての旗を渡すとは信じられない。アメリカのデモクラシーは一体どうなっているのか。アメリカのデモクラシーと言えば、すでに200年近くも前にフランスのトクビルが詳しく書いている(「アメリカのデモクラシー」1835年)。これは言わばアメリカ・デモクラシーの当時の現地ルポともいうべきものであるが、この中でトクビルはアメリカのデモクラシーがまさに社会の隅々までいきわたり、しかもそれが生き生きとして活動しているさまを驚きを以てというかーーむしろ驚嘆の目を以て書き記している。アメリカでは、警察署長も住民から選ばれるのだ!住民の支持がなくなれば馘にもなる(確かにあのビクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」の中で活躍するフランス警察と比べると、この事の意味が分かる)。アメリカの新聞はなんと、町の殺人事件や火事・泥棒の事などを記事にしている!当時の新聞と言えば、例えばマルクスの伝記に出てくる「ライン新聞」のように言わば論壇紙が基本であったことと比べると、アメリカの新聞のように一般大衆のための情報紙などと言うのは確かに驚きだったに違いない。アメリカのデモクラシーは以来鍛え上げられてきた(はずだ)。この間、公民権運動もあった、ウオーターゲート事件における報道機関の役割、これらも確かに磨き上げられてきたアメリカのデモクラシーを示しているに違いないーまた、アメリカのデモクラシーと不可分の世論調査の手法、その分析も格段に進歩した。加えて、このアメリカ・デモクラシーを支える知的な社会・ソサエテイの厚み。これは又目をみはるばかりで、簡単に言いようがないが、アメリカ社会はは338人!!のノーベル賞学者を抱えているのだ。何とも言いようがないが、これは日本・東京にしてみれば、東京の23区に少なくとも一人ずつノーベル賞学者がいるようなものではないのか。
そして、かくて選ばれたのがトランプとは!

トランプには、個人的に妙な思い出がある。かなり前になるが、アメリカ・ワシントン(DC)で国際金融機関に勤務していたころ、なにか出張の用事で自宅からワシントン・セントラルステーションまで、タクシーを呼んだことがある。タクシーの運転手は中年のやせ形、何かオフィスのサラリーマンと言う感じであった。が、しばらくしてその運転手が(ミラー越しに筆者のことを観察していたのかどうかは知らないが)、お客さんは何の仕事をしているのかと聞いてきた。こちらはなんとなく自分はバンカーだと答えた(金融機関勤務であるからこれは当然である)。すると、ややあって、その運転手は、ーー自分はバンカーつまり銀行員と言うのは好きではないーーと言うのである。こんなところでお前は嫌いだ、と言われたのには多少鼻白んだが、別にいきり立つ必要もないのでー適当にお相手をしながら、バンカー嫌いとはどうしてなのかと聞いてみた。すると、その運転手はとうとうと、と言うよりは諄々と、次のように述べたのである。そもそも、お金と言うものは、きちんとその「出入り」を管理しておれば十分なのであり、お金を借りると言うようなことは、まともな人間のすることではない。いつでも、とにかく both ends meet にきちんと気をつけていればよいのだ(both ends つまり収入と支出が見合うように管理していればよい、と言う事なのだろう)。これがきちんと出来ないようでは、人間が出来ていないと言う事であるーーと言うようなことを言う。そして、続けて、実は、と、当の運転手が言い出したのがトランプである。運転手曰く、実は、私はトランプを知っている。以前ニューヨークで仕事をしていた時トランプを見た。その時トランプが、奥さんとなにやら激しい口論となり、ホテルをかけだしてくるところを見たのだが、トランプ夫人が、そのあとから追いかけて、手に持った書類をトランプの背中に向けて投げつけた。そして、実はこの書類は、トランプとの結婚契約書だったのだ。この時のトランプの姿を今でも覚えているし、トランプ夫人が投げつけた書類がホテルの窓から風に舞うのを見た。わかるかーーと当の運転手は筆者に向けて続けるのである、人間はお金では幸せにならない。どんなに金であかしても、結局は結婚契約書を投げつけられると言うようなはめになる。人間は要するにboth ends meet に心がけることが肝要である。銀行から金を借りるようになってはおしまいであり、哀れなざまを見ることになる--と言う事であった。そういえば、確かトランプは二度目の結婚も破たんし、その離婚条件について波乱があったことは新聞にも報道されていたし、記憶にあったので、その頃の事かと思って聞いていた。そうこうするうちにタクシーは、セントラル・ステーションの前につき、車を降りることになったのだが、バンカーの一人たるたる筆者として、このまま言われっぱなしで別れるのも面妖な、と思い、タクシーを降りる時、ーー成程あなたの話は興味深かったが、私に言わせれば、あなたは、それほどきちんと both ends meet に心がけているように、お金の管理にたけているようであるから、あなたはきっと good banker になれるだろうとーー捨て台詞を残しておいた。という小話であるが、今、この話を思い出すのは、この時の運転手の話・態度にも表れているように(またその頃の様々なトランプに関する報道記事を思い出してみても)、トランプは一般の庶民層の間でも決して人生の成功者とはみられておらず、むしろなにか浅ましいイメージで理解されているに違いないーと言うことである。筆者が、今回のトランプの選挙戦を見ていて、トランプは、知識層の支持を得ていないばかりか、一般の庶民層の中でもそのイメージは実は憐れむべきものにちがいないーーという思い込みがあったのには、このような背景がある。知識層には勿論、アメリカの一般庶民にも支持されていないとすれば選挙結果は明らかであろうーーと思っていた。

そして、今日目覚めてみればトランプ大統領の就任であるーーあらためて、これは、夢ではない!

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